1970年代から80年代にかけて、甘いルックスと高身長で人気を博した俳優・沖雅也さん。「必殺シリーズ」や「太陽にほえろ!」など数々のヒット作に出演し、トップ俳優の座を確立していました。
しかし1983年、わずか31歳という若さで突然この世を去ってしまいます。遺書に記された「おやじ、涅槃で待つ」という言葉は日本中に衝撃を与え、今なお語り継がれていますよね。
沖雅也さんはなぜ死んだのか。その死因の真相や、遺書に書かれた「おやじ」こと日景忠男さんとの複雑な関係について、詳しく掘り下げていきますね。
沖雅也の死因は京王プラザホテルからの飛び降り自殺
沖雅也さんの死因や自殺理由についてまとめると、以下のとおりです。
- 1983年6月28日、新宿・京王プラザホテル47階から飛び降り自殺(31歳没)
- 死因の背景には躁うつ病の悪化・老いへの恐怖・日景忠男との複雑な関係がある
- 遺書「おやじ、涅槃で待つ」の「おやじ」は養父・日景忠男のこと
- ホテルの遺書のほか、自宅にも2枚の遺書が残されていた
- 事故説もあるが、半年前からの予約や複数の遺書から自殺の可能性が濃厚
| 名前 | 沖雅也(おき まさや) |
|---|---|
| 本名 | 日景城児(ひかげ じょうじ)※出生名:楠城児(くすのき じょうじ) |
| 生年月日 | 1952年6月12日 |
| 没年月日 | 1983年6月28日(31歳没) |
| 出身地 | 大分県別府市 |
| 身長 | 183cm |
| 代表作 | 必殺仕置人、太陽にほえろ!、俺たちは天使だ! |
京王プラザホテル47階からの転落
1983年(昭和58年)6月28日、東京・新宿の京王プラザホテルで衝撃的な事件が起こりました。沖雅也さんが本館最上階の47階バルコニー(高さ約178m)から飛び降り、7階屋上のプール脇に落下して即死したのです。
沖さんは仕事を終えた後、劇作家・つかこうへいさんの名義で京王プラザホテルにチェックイン。馴染みの風俗嬢を部屋に呼び、その後ひとりでホテル最上階へ上がりました。
バルコニーの縁に座って一服していた沖さんに気づいた警備員が声をかけますが、そのときには既にフェンスをよじ登る寸前でした。警備員の制止も間に合わず、沖さんはそのまま身を投げてしまいます。
なお、沖さんは後ろ向きに背中から落下したため、遺体の顔には傷ひとつなかったと伝えられています。美しさへのこだわりは最期の瞬間まで貫かれたのかもしれません。
「おやじ、涅槃で待つ」遺書の全容
ホテルの客室に残されたメモ用紙には、遺書が記されていました。冒頭には京王プラザホテルへの謝罪、続いて名前を使わせてもらったつかこうへいさんへの謝罪が綴られています。
そしてその核心部分には、こう書かれていました。
人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。
若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。
老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを、離れた境地を求めることが正しいものを求めることと思うが、今の私は誤ったものの方を求めている者。
そして便箋の裏面には、あの有名な一文が記されていました。
「おやじ 涅槃で まってる」
「涅槃(ねはん)」とは仏教用語で、すべての苦しみから解放された安楽の世界を意味します。「おやじ」とは、1975年に養子縁組をした養父・日景忠男さんのことでした。
自殺ではなく事故?日景忠男が語った転落の真相
沖さんの死は自殺と断定されていますが、後に日景さんの親族が語った証言から、実は事故だったのではないかという見方もあります。
日景さんの親族によると、沖さんは日景さんの嫉妬深く束縛する性格に嫌気がさし、日景さんの財布から50万円を抜き取って京王プラザホテルに2日間滞在していたそうです。
風俗嬢を部屋に呼んだ後、沖さんはその女性に一通の手紙を託しました。手紙には「ホテルに迎えに来てほしい」と書かれていたといいます。日景さんは「自殺する人間が迎えに来いとは言わないだろう」と語っていたそうです。
また、最上階で沖さんに声をかけた警備員は「声を掛けたら驚くように振り向いて、バランスを崩して落ちた」と説明したとも言われています。
ただし、日景さん宛の手紙の記述は「私が死んだら迎えに来てほしい」という遺書の一部とも解釈できます。そしてホテルの遺書以外にも自宅に2枚の遺書が残されていたことから、やはり自殺であった可能性が濃厚です。
自宅にも2枚の遺書が残されていた
京王プラザホテルの遺書だけでなく、沖雅也さんの自宅にも2枚の遺書が残っていたことがわかっています。
1枚目の遺書には「私は生きる気力を失い苦しさに負け、死を選びます」と書かれ、「沖雅也としてでなく日景城児として死んでいきます」と、芸名ではなく本名で最期を迎える覚悟が綴られていました。日景忠男さんへの感謝の言葉もあり、15年の親子関係への思いが伝わってきます。
2枚目にも同様に自殺の決意が明記され、「一心同体で歩いてきた道ですが途中で投げ出す私をおゆるし下さい」と、日景さんとの関係の深さをうかがわせる内容でした。
どちらの遺書にも日景忠男さんへの感謝と謝罪が込められており、二人の関係が単なる養父子にとどまらない特別なものであったことがわかります。
なぜ自ら命を絶ったのか?自殺理由の考察
沖雅也さんがなぜ死んだのか。その自殺理由については、複数の要因が重なっていたと考えられています。
まず大きいのが躁うつ病の深刻化です。1981年、過密スケジュールによる体調悪化で躁うつ病と診断され、精神安定剤が手放せない状態になりました。同年には実父の墓参りに向かう途中で交通事故を起こすなど、精神的にかなり不安定だったことがうかがえます。
さらに肝臓炎の発症や薬の副作用によるむくみ・肥満も重なり、病状は悪化。長期休養を余儀なくされ、すべての出演作を降板し、表向きには「病死」と発表されてテレビ俳優業を事実上引退していたのです。
遺書に綴られた「老いと病と死とを超えた境地を求めたい」という言葉からは、老いや美貌の衰えに対する強い恐怖心が読み取れます。生前に「30歳を過ぎて醜く老いるのなら死を選ぶ」と語っていたとも伝えられており、自殺当時のベスト体重は10kg太った状態から半年かけて戻したというエピソードも残っています。
日景忠男さんとの束縛的な関係への苦悩、俳優として第一線を退いた挫折感、そして精神疾患――これらが複合的に絡み合い、沖さんを追い詰めてしまったのでしょう。
また、自殺したホテルの部屋は半年前から予約されていたことが判明しており、衝動的ではなく長い間考え抜いた末の決断だったと見られています。
養父・日景忠男との関係と「涅槃で待つ」の背景
沖雅也さんの死を語るうえで欠かせないのが、遺書で「おやじ」と呼びかけた養父・日景忠男さんとの関係です。二人の出会いから別れ、そして日景さんのその後を見ていきましょう。
ゲイバーでの出会いから養子縁組へ
日景忠男さんは実業家で、沖雅也さんが俳優になる前にバーテンダーとして働いていた池袋のゲイバーで出会いました。役者志望だった沖さんの才能を見込んだ日景さんは、芸能事務所「JKプランニング」を設立し、公私ともに沖さんをサポートしていきます。
1975年には沖さんの実父が亡くなったことをきっかけに養子縁組を行い、法的にも親子となりました。世間からは同性婚ではないかとも言われていた二人ですが、沖さん自身は女性が好きだったとされ、日景さんとの関係はあくまで生活上の必要からだったとも語られています。
ただ、日景さんの嫉妬深く束縛的な性格に沖さんは苦しんでいたようで、この複雑な関係が精神的な負担になっていたことは間違いなさそうです。
日景忠男のその後と最期
沖雅也さんの死後、日景忠男さんには保険金3億円が支払われました。日景さんはそのお金をベッドに敷き詰めて「これが沖の全てだ!」と叫んだとも伝えられています。
その後、新宿2丁目にゲイ喫茶「シンドバッド」を開業。高級車や海外旅行などに散財を重ね、3億円をわずか3年で使い切ってしまったそうです。
2005年には覚せい剤取締法違反で逮捕され、2008年にも暴力団と共謀した恐喝容疑で再び逮捕されるなど、転落の一途をたどりました。
その後消息が途絶えていた日景さんですが、2015年2月に肝硬変により亡くなっていたことが明らかになっています。最期は実姉に看取られたものの、葬式もなく寂しい最期だったようです。沖さんが遺書に記した「涅槃」で、二人は再会できたのでしょうか。
本命の恋人?沖雅也と坂口良子の関係
沖雅也さんの恋人として名前が挙がるのが、女優の坂口良子さんです。二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。
沖さんと坂口さんは仕事での共演が多く、「本命の恋人ではないか」という噂がありました。沖さんの葬儀では坂口さんが弔辞を読んだこともあり、参列した坂口さんをレポーターが取り囲む騒ぎにもなったそうです。
しかし坂口さん自身は「事実でないのに色々言われて、すごく沖くんが可愛そうです」と語っており、二人の関係は恋人というよりも兄と妹のような間柄だったとされています。デビュー当時から坂口さんは沖さんにいろいろと教わっていたそうで、信頼できる先輩後輩としての絆があったのでしょう。
なお、坂口良子さんは2013年3月27日に横行結腸がんおよび肺炎のため57歳で亡くなっています。
苦労人だった沖雅也の生い立ち
沖雅也さんの生い立ちを知ると、華やかな俳優人生の裏にあった苦労が見えてきます。
大分県別府市で、石油卸売業を営む父と東京帝大医学部出身の祖父を持つ裕福な家庭に生まれました。しかし父の事業失敗により大分市内を転々とする生活に。中学2年生のときに両親が離婚し、父方に引き取られますが折り合いが悪く、中学卒業前に10万円の全財産とバッグひとつで家出して上京します。
東京では年齢を偽りながらさまざまな職を転々とし、池袋のゲイバー「げれえ」でバーテンダーとして働いていました。そこでお客にスカウトされ、ファッション誌のモデルの仕事を始めます。
転機は16歳のとき。ゲイバーの客だったオスカープロモーション設立前の古賀誠一さんにスカウトされ、日活関係者に紹介されたことで、映画『ある少女の告白・純潔』で銀幕デビュー。翌1969年にはエランドール新人賞を受賞し、家出からわずか2年ほどで俳優としての頭角を現したのです。
その後は「必殺仕置人」の棺桶の錠役、「太陽にほえろ!」のスコッチ刑事役、「俺たちは天使だ!」の麻生雅人役など、人気作に次々と出演。特にスコッチ刑事は人気が高く、降板後も視聴者から再登場を求める声が殺到するほどでした。
沖雅也の死因まとめ
沖雅也さんは1983年6月28日、京王プラザホテル47階から飛び降り、31歳でこの世を去りました。死因の背景には躁うつ病の深刻化、老いへの恐怖、養父・日景忠男との複雑な関係など、さまざまな要因が絡み合っていたと考えられています。
遺書に記された「涅槃で待つ」という言葉は、苦しみから解放された世界を求めた沖さんの最期のメッセージでした。半年前からホテルを予約し、自宅にも2枚の遺書を残していたことから、長い間苦悩し続けた末の決断だったことがうかがえます。
日景忠男さんとの関係、精神疾患との闘い、美しさへのこだわり――31歳の若さで命を絶った沖雅也さんの人生は、今なお多くの人の心に深い印象を残していますね。



コメント
スコッチ刑事役の沖雅也さんが好きです。格好いい。沖さんには生きて活躍してほしかった。沖さんにあいたかった。残念です。悔しい。天国からファンを見ていてほしい。沖さんにはさよならなんていえない。