吉本新喜劇で亡くなったメンバーや女優の一覧と死因を総まとめ!

お笑い芸人

関西のみならず、全国で愛されている吉本新喜劇

その歴史は古く、私たちに多くの笑いを届けてくれた吉本新喜劇を支えた人たちのなかには、惜しまれつつその生涯を終えられている方もいます。

そこで本記事では、吉本新喜劇のメンバーで亡くなった方を、2026年2月時点の最新情報で紹介します。

彼らが残した功績と、色褪せないギャグの数々を振り返ってみましたので、ぜひ最後までお付き合いください。

【2026年現在】吉本新喜劇で亡くなった人一覧

吉本新喜劇のメンバーですでに鬼籍に入られている方々について、直近の訃報から順に見ていきましょう。

山田亮(2025年)

吉本新喜劇の舞台で、借金取りの子分役やチンピラ役など、「悪役だけど憎めないキャラクター」として長年活躍された山田亮さん。

非常に残念なことに、2025年4月8日、うっ血性心不全のため51歳という若さで亡くなられています。

2024年11月には「上海コメディフェスティバル」に出演し、翌2025年2月の広島公演が最後の舞台となりました。

「○○したらどうや」とドスの利いた声で脅しつつも、どこか愛嬌のある演技は、新喜劇のストーリーを回す上で欠かせない存在でした。

働き盛りでの突然の別れに、座員やファンからは悲しみの声が多く上がりました。

桑原和男(2023年)

桑原和男さんが演じる和子ばあちゃんは、新喜劇ファンはもちろん、関西では知らない人がいないほどの「伝説のキャラクター」でした。

小柄な体を小さく折りたたみ、独特の高い声で喋るその姿は、今でも私たちの目に焼き付いています。

そんな桑原和夫さんですが、2023年8月10日、老衰のため87歳で亡くなられました。

82歳で体調不良により休養に入りましたが、その芸人魂は衰えることがありませんでした。

2019年3月の吉本新喜劇60周年記念特別公演「60周年だよ!よしもと新喜劇」で久しぶりにNGKの舞台に復帰。

2020年10月に行われた「よしもと大笑い祭り寄席」が最後の舞台となりましたが、その後も2022年11月になんばグランド花月へ車椅子で訪れ、愛する新喜劇を観覧していたそうです。

桑原和夫さんは吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」時代から活躍する最古参メンバーの一人。

1969年に座長に就任した頃は好青年役が多かったそうですが、和子ばあちゃんのイメージが強すぎて、意外に思う方も多いかもしれません。

後に専科へ入り、母親やおばあさんなどの女性役を確立させました。

特に有名だったのが、腰の曲がったおばあさんが舞台袖から登場するシーン。

地面と平行になるほど腰を曲げてよちよちと歩き、玄関などの定位置に着いた瞬間、シャキッと背筋を伸ばして、

「ごめんください」
「どなたですか?」
「○○です」
「お入りください」
「ありがとう」

と、大真面目な顔で1人芝居するギャグは、観客を爆笑の渦に巻き込みました。

私生活では10歳年上で、3人の子供を持つシングルマザーの女性と結婚されています。

師匠である夢路いとし・喜味こいし先生の反対を押し切っての結婚でしたが、そこには桑原さんの深い愛情と覚悟があったのでしょう。

寿一実(2023年)

寿一実さんは見事なスキンヘッドがトレードマークで、その風貌を活かしたハゲネタや、コミカルな動きで数多くの笑いを生み出しました。

2023年5月5日、66歳で亡くなられています。

吉本興業の発表によると長崎県内の病院で亡くなられたとのことです。

1976年に吉本新喜劇に入団し、副座長も務めた実力者でしたが、1989年に一度、連帯保証人となった先輩芸人の借金を返済するために引退を決意します。

故郷の佐世保に戻り、不動産業で必死に働いて全額を返済したというエピソードからは、寿さんの義理堅い人柄が伝わってきます。

その後、吉本興業の九州進出に伴い、1992年に福岡吉本で芸能界に復帰。

福岡や長崎のローカル番組には欠かせない顔として親しまれました。

そして2018年には、悲願であった「九州新喜劇」を立ち上げ、初代座長に就任。九州のお笑い界を牽引する存在でした。

財津一郎(2023年)

「ピアノを売ってチョーダィ!」のフレーズや「もっともっとタケモット~」の歌声でお茶の間に強烈なインパクトを残した財津一郎さん。

あのCMソングを聴くと、赤ちゃんがピタリと泣き止むという話題が都市伝説のように広まったこともありましたね。

慢性心不全により、2023年10月14日に89歳で亡くなりました。

1962年に吉本興業に入り、1964年から吉本新喜劇に参加。翌1965年には座長に就任するほどの人気ぶりでした。

初期はサラリーマン役でしたが、徐々にその非凡なコメディセンスが開花していきます。

特に、藤田まことさん主演の「てなもんや三度笠」での浪人役は伝説的です。

両手を頭の後ろから回して反対側の耳を掴み、甲高い声で叫ぶ「ヒッジョーにキビシ〜ッ!」や「〜してチョーダィ!」というギャグは、当時の子供たちがこぞって真似をする社会現象となりました。

抜いた刀の刃を舌でなめまわす狂気的な動きと、コミカルなフレーズのギャップは、財津さんにしか出せない味でした。

1969年に活動拠点を東京へ移してからは、コメディだけでなくシリアスな役柄もこなす名優として、映画やドラマで長く活躍されました。

1995年に脳内出血で倒れましたが、懸命なリハビリを経て復帰。

2011年の「3年B組金八先生ファイナル」への出演を最後に、静かに芸能活動を休止されていました。

竹本浩三(2022年)

吉本新喜劇の座員ではありませんが、竹本浩三さんは吉本新喜劇の「生みの親」の一人として欠かせない存在です。

彼がいなかったら、今の私たちが愛する吉本新喜劇の形はなかったと言っても過言ではありません。

2022年2月18日、89歳でこの世を去りました。死因は公表されていませんが、記事には大阪府内の自宅で死去とあり、穏やかな最期だったのではないかと推察されます。

竹本浩三さんは脚本家や演出家として、舞台の「裏側」から笑いを支え続けました

彼が築いた演出の基礎は、今も新喜劇の随所に生きています。

例えば、過度な下ネタを排除してお茶の間で愛される路線を作ったり、ヤクザ役を「弱くてどこか憎めないキャラ」に設定したり。

強面のヤクザが兄貴分に怒られてシュンとしたり、しょうもない理由でドジを踏んだりするあの愛すべき展開は、竹本さんの演出があってこそなのです。

また、新喜劇のツッコミ道具としておなじみの「スリッパ」にも、彼のこだわりが詰まっていました。

スリッパの底にフェルトを貼ることで、「思いっきり叩いても痛くないけれど、パァーン!と良い音が響く」という画期的な工夫を凝らしていたのです。

これにより、芸人たちは安心して全力でツッコミを入れることができ、観客にはその迫力が音として伝わるようになりました。

さらに、ライバルであった松竹新喜劇との差別化を図るため、セリフを早口にしてテンポアップさせる演出も導入。

「テンポの早さについていけないのなら、松竹へ行けばいい」「吉本は常に若い観客を狙う」という信念が、現在のスピーディーで爆発力のある新喜劇のスタイルを作り上げたのです。

高石太(2020年)

高石太さんといえば、大きな体と愛嬌のある太鼓腹を活かしたリアクション芸で一世を風靡しました。

特に有名だったのが、喧嘩の仲裁に入って逆に投げ飛ばされるシーン。

プロレスのハンマースルーのように勢いよく振られ、うつ伏せで舞台を滑っていったかと思うと、ガバッと起き上がり、お腹をさすりながら、

「熱う~!!熱う~!!」

と絶叫するギャグは、子供から大人まで大爆笑をさらいました。あのお腹が擦れる摩擦熱を表現する発想は、まさに天才的でした。

副座長まで務めましたが、1987年初旬に吉本新喜劇を退団

その後は松竹新喜劇への移籍を経て、自ら「あつあつ一座」を結成し、地方公演を中心に精力的に活動されました。

晩年の2008年からは北海道札幌市に移住し、市民劇団「教文13丁目笑劇一座」に所属。

テレビの第一線から退いても、喜劇ワークショップやボランティア活動を通じて、生涯現役で「笑い」を届け続けました

2020年1月31日、虚血性心疾患により71歳で亡くなられましたが、その熱い芸人魂は北の大地でも愛されていたことでしょう。

チャーリー浜(2021年)

チャーリー浜さんといえば、なんと言っても「…じゃあ~りませんか」のフレーズです。

キザな口調で語りかけ、最後にこのフレーズで落とす芸は日本中を席巻し、1991年の新語・流行語大賞を受賞する快挙を成し遂げました。

この大ブレイクがきっかけで吉本新喜劇の東京進出が加速し、全国的な「新喜劇ブーム」の立役者となりました。

晩年は体調を崩され、呼吸不全および誤嚥性肺炎のため2021年4月18日、78歳でその生涯を閉じました。

1962年に吉本新喜劇に入団して以来、半世紀以上にわたって舞台に立ち続けましたが、その素顔は「吉本きっての奇人変人」としても有名でした。

舞台上ではにこやかな伊達男を演じていましたが、楽屋や裏側では芸に対して非常に厳しく、若手芸人やスタッフを震撼させることもしばしば。

おぎやはぎの小木博明さんがゲスト出演した際に厳しく指導したり、共演者をビンタしたといった破天荒な逸話は枚挙にいとまがありません。

「他人には厳しく、自分には甘い」と揶揄されることもありましたが、誰にも縛られない自由奔放な生き様こそが、チャーリー浜という唯一無二の芸人を作り上げていたのかもしれません。

船場太郎(2020年)

「セン・バタロウです」と自己紹介するだけで笑いが起きる、そんな圧倒的な存在感を放っていた船場太郎さん。

2020年11月27日、81歳で亡くなられました。

元々はバンドマンとして活動していましたが、1965年に吉本新喜劇に入団。二枚目でありながらコミカルな役どころを演じ、人気を博しました。

しかし、船場太郎さんのキャリアは芸人だけにとどまりませんでした。

1991年に大阪市議会議員選挙に出馬して見事当選すると、そこから6期24年という長きにわたり市議会議員を務め、ついには大阪市議会議長にまで登り詰めました。

芸人時代に培った発信力と行動力を活かし、大阪へのオリンピック招致活動(2008年大会)など、市政の発展に尽力。

その功績が認められ、2019年には旭日小綬章を授与されています。

舞台で「セン・バタロウです」と笑わせていたコメディアンが、晩年は重厚な政治家として大阪を支える。そんなドラマチックな人生を歩まれた方でした。

山田スミ子(2019年)

「家政婦は見た!」シリーズやNHKの朝ドラなど、名脇役として数々のドラマに出演されていた山田スミ子さんですが、彼女の原点は吉本新喜劇にありました。

若い頃は「吉本新喜劇のマドンナ」として可憐な役を演じる一方、相手を罵倒しまくる凄まじい「キレ芸」で爆笑をさらう、ギャップの魅力に溢れた女優さんでした。

1968年の入団から1982年頃までレギュラーとして活躍し、新喜劇史上初の「女性座長」を務めた実力者でもあります。

2019年2月12日、直腸がんにより73歳で亡くなられました。

退団後は東京に拠点を移し、女優として華々しく活動されていましたが、晩年は母親の介護と自身の闘病という、過酷な二重生活を送られていたようです。

2017年に最愛の母親を看取った後、ご自身の体調異変に気づいたといいます。

「周りに心配をかけたくない」という一心で、直腸がんの診断を受けてからも約2年間、病気を隠して舞台に立ち続けました。

最後まで女優としての誇りを貫いた生き様は、新喜劇で見せたあの力強いキレ芸のように、たくましく、そしてどこか切なさを感じさせます。

木村進(2019年)

「弱冠23歳」という新喜劇史上最年少の若さで座長に就任した天才、それが木村進さんです。

二枚目の好青年役から、強烈なボケキャラまで何でもこなす万能型のスターでした。

特に有名だったのが、博多弁を操るおばあちゃん役。

独特の甲高い声で「イーッヒッヒッヒッヒッ…」と笑いながら、正座したまま座布団ごと高く飛び跳ねるギャグは、当時の子供たちの度肝を抜きました。あれだけの身体能力を持つ芸人は、そうそういません。

しかし、人気絶頂だった1988年、脳内出血により倒れてしまいます。一命は取り留めたものの、左半身に重い麻痺が残り、志半ばで新喜劇を退団することになりました。

その後はリハビリを続けながら、2019年5月19日、腎不全により68歳でその生涯を閉じました。

通夜・告別式には、間寛平さん、池乃めだかさんら盟友だけでなく、桂文枝さんやオール巨人さんなど、界隈を超えた大御所たちが参列

彼がいかに愛され、その才能を惜しまれていたかが分かります。

木村進さんは、祖父が初代博多淡海、父が2代目という超名門の「芸能一家」の出身でもありました。

偉大すぎる父への反発から吉本入りし、一時は絶縁状態にありましたが、後に和解。

お父さんが新喜劇の舞台に上がり、客席に向かって「木村進をよろしくお願いいたします」と土下座したシーンは、涙なしには語れない伝説のエピソードです。

倒れてからは表舞台から遠ざかっていましたが、1999年の「間寛平芸能生活30周年記念公演」では車椅子でゲスト出演し、盟友・寛平ちゃんと抱き合う姿がファンの涙を誘いました。

また、意外な事実として、大阪でいち早く「100円ショップ」を経営し成功させた実業家としての顔も持っていたそうです。

室谷信雄(2018年)

1970年代から80年代にかけて座長を務め、「おっさん」の愛称で親しまれた室谷信雄さん

2018年12月5日に72歳で亡くなられましたが、ご本人の遺志により、その死はしばらく公表されず、翌年になって盟友の間寛平さんから明かされました。

室谷さんの芸といえば、なんといってもあのパワフルなツッコミと自虐ネタです。

出身地である泉佐野市が玉ねぎの産地だったことから、薄い頭髪をいじられ「玉ねぎを食べ過ぎた」「玉ねぎの祟り」と返すのがお約束でした。

また、トイレの詰まりを直す「ラバーカップ(スッポン)」を頭のてっぺんに吸い付け、そのまま引っ張り回されるという体を張ったギャグは、ビジュアルのインパクトが強烈すぎて、今でも語り草になっています。

そして極めつけは、泉州弁での怒号。

「ごちゃごちゃ言うとったら、しゃーきまっそー!よ、ワ~レ~!!」

このド迫力の叫びは、当時の関西の子供たちがこぞって真似をする大ブームとなりました。

舞台上では暴れん坊でしたが、素顔は非常に礼儀正しく、謙虚な人格者だったといいます。

当時、新喜劇と漫才師の間には見えない壁があったそうですが、室谷さんは若手時代の島田紳助さんや明石家さんまさんにも敬語で接し、積極的に交流。そのため、派閥を超えて多くの芸人に慕われていました。

1984年に喉頭がんを患い、声を失ったことで潔く引退。

「仲間に迷惑をかけたくない」と連絡を絶っていましたが、2010年の24時間テレビで、アースマラソンに挑む間寛平さんを激励するために25年ぶりにテレビ出演

かつての盟友との再会は、多くのオールドファンの胸を熱くさせました。

中山美保(2017年)

吉本新喜劇の「ミポリン」こと中山美保さんは、長きにわたり新喜劇の看板女優(マドンナ)として君臨しました。

2017年2月7日、肺血腫による呼吸困難のため78歳で亡くなられました。

晩年は「再生不良性貧血」という指定難病と闘い、2009年頃から表舞台を去って療養生活を送られていましたが、その訃報は関西のお笑い界に大きな悲しみをもたらしました。

1967年のデビュー当時は、誰もが認める正統派の美女

しかし、中山美保さんの凄さは、年齢を重ねてからも「乙女心」を忘れない芸風にありました。

おばちゃん役になっても、セーラー服を着て女学生役を演じたり、ブリっ子をしたり。

そんな無理のある若作りをして、ガニ股の大股開きで歩き出し、共演者から「足、足、足!」とツッコまれる。この一連の流れは、新喜劇の美しい様式美でした。

私生活では、昭和の漫才王・横山エンタツさんの長男と結婚されており、芸能一家の一員でもありました。

旦那様を早くに亡くされた後は、沖縄の石垣島で療養されていた時期もあったそうです。

美しく、そして面白かった中山美保さん。彼女のチャーミングな笑顔は、吉本新喜劇の歴史に華やかな彩りを添え続けてくれました。

島木譲二(2016年)

角刈りに上半身裸、強面のルックスから繰り出されるフィジカルな芸で、子供たちに絶大な人気を誇った島木譲二さん。

2016年12月16日、脳溢血により72歳で亡くなりました。

島木さんといえば、なんといっても「大阪名物パチパチパンチ」です。

上半身裸になり、自分の胸を平手でバチンバチンと強打する。そのシンプルな痛快さと、叩き終わった後の「う~ん、満足!」というニッコリ笑顔のギャップは、吉本新喜劇の定番中の定番でした。

実はこれ、台本に書かれた「ゴリラみたいに」というト書きをヒントに、舞台上で生まれたアドリブから完成した奇跡のギャグだと言われています。

元プロボクサーという異色の経歴を持つ島木さんですが、怪我でボクサーの道を断たれ、友人の間寛平さんの紹介で1980年に吉本新喜劇に入団。

その鍛え上げられた肉体と強面の風貌は、悪役として重宝されました。

しかし、ただの悪役で終わらないのが島木さんの真骨頂。

灰皿で頭を叩く「ポコポコヘッド」や、一斗缶を頭にガンガンぶつける「カンカンヘッド」など、体を張った芸の数々は、彼の実直で真っ直ぐな性格そのものでした。

2011年頃から体調を崩して療養生活に入り、復帰を目指していましたが、残念ながら再びあの筋肉美を舞台で見せることは叶いませんでした。

しかし、彼の残した「パチパチパンチ」の音は、今も私たちの記憶の中で軽快に鳴り響いています。

井上竜夫(2016年)

「竜じい」の愛称で親しまれ、吉本新喜劇には欠かせない名バイプレイヤーだった井上竜夫さん。

2016年10月5日、高度肺気腫により74歳でその生涯を閉じました。

井上さんの代名詞といえば、舞台袖からヨボヨボと登場し、開口一番に放つ「おじゃましまんにゃわ」というフレーズです。

この一言だけで、会場の空気を一気に緩ませる不思議な力を持っていました。

また、共演者から「寝てた?」とツッコまれて「寝てない!」と返す、とぼけたやり取りも竜じいならではの味でした。

実は、この「足元がおぼつかないおじいちゃん役」は、ご実家のお寺に訪れるお年寄りたちを観察して作り上げた役作りの賜物だったそうです。

1963年の入団以来、半世紀以上にわたって舞台を支え続けましたが、2014年の公演中に体調を崩し、休養へ。

呼吸器系の持病と戦いながらも、2015年12月の「吉本新喜劇まつり!2015」で一度は復帰を果たしました。これが、ファンが見た最後の竜じいの姿となりました。

亡くなる直前の言葉は「また明日」だったといいます。

最後まで舞台への希望を持ち続けた、生粋の喜劇人でした。

原哲男(2013年)

四角い顔に黒縁メガネ、そして立派な口ひげ。「カバ」の愛称で親しまれた原哲男さんは、新喜劇の黄金期を支えた名優でした。

2013年1月13日、肝がんにより78歳で亡くなられました。

原さんのギャグといえば、人から容姿をいじられた時の返し技。

「誰がカバやねん!」
「死なん程度に殺したる!」

ドスの利いた声でこう凄んで見せるものの、どこか滑稽で愛嬌がある。その絶妙なキャラクターは、1969年に座長に就任するほどの実力に裏打ちされたものでした。

この「カバ」という愛称には、面白い逸話があります。

1983年、大阪の天王寺動物園で生まれたカバの名前を公募したところ、圧倒的多数で「テツオ」に決まってしまったのです。

これは原さんの人気ぶりを示すエピソードですが、ご本人は当初、「カバに似ている」と言われることをあまり良く思っていなかったそうで、カバ似の芸能人としてオファーがあっても「あくまで舞台上の設定だから」と断っていたという、芸人としてのプライドを感じさせる一面もありました。

1990年の退団後は、親交の深かった藤田まことさんの作品に出演するなど、シリアスな演技でも存在感を発揮されました。

岡八郎(2005年)

ギョロリとした大きな目で「奥目の八ちゃん」として愛され、花紀京さんと並んで吉本新喜劇の「二大巨頭」と称された伝説のコメディアン、岡八郎さん。

2005年7月26日、肺炎による呼吸不全のため67歳で亡くなりました。

舞台上での岡八郎さんは、まさに自由奔放。

「くっさー」
「えげつなー」
「隙があったらかかってこんかい!」

これらのギャグを連発し、空手を披露したかと思えば、全く関係ないところで通信教育の空手の型を見せるなど、破天荒な芸風で観客を爆笑の渦に巻き込みました。

しかし、その私生活はまさに波乱万丈でした。

極度のあがり症を紛らわせるための飲酒が原因でアルコール依存症に苦しみ、胃がんや急性膵炎など、度重なる大病とも戦い続けました。

そして1996年、自宅での転倒事故により脳挫傷を負い、記憶障害という後遺症が残ってしまいます。

セリフを覚えることが困難になり、事実上の引退を余儀なくされましたが、それでも岡八郎さんは諦めませんでした。

晩年は、娘さんのサポートを受けながら講演活動などを行い、壮絶な人生経験を笑いと涙に変えて語り続けました

「転んでもただでは起きない」。その生き様そのものが、多くの人々に勇気を与え続けています。

花紀京(2015年)

岡八郎さんと並び、「吉本新喜劇の二大巨頭」として一時代を築いた天才・花紀京さん。

2015年8月5日、肺炎により78歳で亡くなりました。

花紀京さんといえば、その独特なファッションとキャラクターが強烈でした。

ニット帽に腹巻、ニッカーボッカーを身につけ、目の下にはクマ、そして赤く塗られた鼻。

一見するとただの酔っ払いや浮浪者に見える風貌ですが、彼が放つ「間」の笑いは芸術の域に達していました。

例えば、店員に値段を聞かれて真顔で「ほな、百万円」と返したり、食事をした直後に「腹減った」と呟いたり。

計算された「オフビートな笑い」は、ダウンタウンをはじめとする後世の芸人たちにも多大な影響を与えました。

2001年には、ダウンタウンらと共にユニット「Re:Japan」を結成し、「明日があるさ」で紅白歌合戦に出場するという快挙も成し遂げています。

しかし、その翌年に脳腫瘍を発症。

約13年にも及ぶ長い闘病生活の末、静かに旅立たれました。

名優・横山エンタツの息子として生まれながら、親の七光りを嫌い、師匠・花登筺の下で一から芸を磨いた反骨心。

その生き様は、まさに「芸の虫」と呼ぶにふさわしいものでした。

横山やすし(1996年)

「稀代の天才漫才師」と呼ばれ、その破天荒すぎる生き様で伝説となった横山やすしさん。

1996年1月21日、アルコール性肝硬変により51歳という若さで亡くなりました。

1966年に西川きよしさんと結成した「やすしきよし」は、漫才ブームの頂点に君臨し、そのスピード感あふれるしゃべくり漫才は今なお語り継がれる傑作です。

しかし、輝かしい栄光の裏で、やすしさんの人生は常にトラブルと隣り合わせでした。

無免許運転、タクシー運転手への暴行、生放送中の暴言、度重なるドタキャン…。

「お酒」が原因で数々の不祥事を起こし、1989年には吉本興業を解雇されるという衝撃的な結末を迎えました。

それでも、やすしさんが人々に愛され続けたのは、その飾らない人間味ゆえでしょう。

ボートレースに情熱を燃やし、セスナ機の操縦免許を持つなど、趣味人としても一流。

そして何より、漫才に対する情熱は本物でした。

相方の西川きよしさんが参議院選挙に出馬した際、誰よりもその行く末を案じ、政治家の道を選んだことに失望したというエピソードからは、漫才師としての純粋すぎるプライドが垣間見えます。

亡くなった際の葬儀には、芸能関係者やファンを含め総勢2000人以上が参列

「怒るでしかし!」というあの決め台詞とともに、横山やすしという男は、最後まで世間を騒がせ、そして愛されたスーパースターでした。

【番外編】吉本新喜劇ゆかりの功労者たち

新喜劇の座員ではありませんが、新喜劇の歴史を語る上で欠かせない、偉大な功労者たちも近年旅立たれています。

坂田利夫(2023年)

「アホの坂田」の愛称で親しまれ、日本中に「アホ」という言葉を愛すべきものとして定着させた坂田利夫さん

2023年12月29日、老衰のため82歳で亡くなられました。

新喜劇の舞台にも数多く客演し、その独特な歩き方や「あ~りが~とさ~ん」のギャグで、登場するだけで爆笑をかっさらっていきました。

生涯独身を貫き、芸に生き、最期は盟友・間寛平さんに看取られて旅立ったというエピソードは、多くの人々の涙を誘いました。

今くるよ(2024年)

女性漫才師のパイオニアであり、「どやさ!」のフレーズと派手な衣装でおなじみだった今くるよさん。

2024年5月27日、膵がんのため76歳で亡くなられました。

かつては吉本新喜劇にも出演経験があり、女性芸人が活躍する土壌を切り拓いた功績は計り知れません。

明るくポジティブなキャラクターで、新喜劇メンバーとも親交が深く、吉本ファミリーの「お母さん」のような存在でもありました。

まとめ

1959年の発足以来、数え切れないほどの笑いと涙を生み出してきた吉本新喜劇。

今回ご紹介した方々は、その長い歴史の中で独自の「笑い」を確立し、私たちを楽しませてくれた偉大なエンターテイナーたちでした。

彼らが舞台で残したギャグや名演技は、映像や私たちの記憶の中で生き続け、次の世代へと受け継がれていくことでしょう。

天国でもきっと、賑やかな新喜劇を繰り広げているに違いありません。

改めて、心よりご冥福をお祈りいたします。

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