関西のみならず、全国で愛されている吉本新喜劇。
その歴史は古く、吉本新喜劇を支えた人たちのなかにはその生涯を終えられている方もいます。
そこで本記事では、吉本新喜劇のメンバーで亡くなった方を紹介します。
彼らの経歴も調べてみましたので、ぜひ最後までお付き合いください。
【2024最新】吉本新喜劇で亡くなった人一覧
吉本新喜劇のメンバーですでに鬼籍に入られている方は17名です。
それぞれのメンバーについて見ていきましょう。
桑原和男(2023年)
出典:お笑いナタリー
桑原和夫さんが演じる和子ばあちゃんは新喜劇ファンはもちろん、関西ではお馴染みのキャラとして親しまれていましたよね。
そんな桑原和夫さんですが、2023年8月10日に亡くなられています。
突然の訃報に多くの人が驚き、悲しみました。
出典:サンスポ
87歳でした。死因は老衰です。
82歳のときに体調不良で休養に入るものの、精力的に活動されていた桑原和夫さん。
2019年3月に行われた吉本新喜劇60周年記念特別公演「60周年だよ!よしもと新喜劇」で久しぶりにNGKの舞台に立ちます。
出典:サンスポ
2020年10月に行われた「よしもと大笑い祭り寄席」が最後の舞台となりましたが、2022年11月になんばグランド花月に車椅子で訪れ、新喜劇を観覧していました。
桑原和夫さんは吉本新喜劇の古参メンバーで、吉本新喜劇の前身である「吉本ヴァラエティ」の時代から活躍されていました。
出典:X
1969年に座長になりますが、その頃までは好青年役を演じることが多く、和夫ばあちゃんのイメージしかない人にとっては意外に思うのではないでしょうか。
後進に道を譲るために吉本新喜劇には専科というのがあり、専科に入ってから母親やおばあさんなどの女性役をやるようになります。
出典:サンスポ
腰の曲がったおばあさんを強調するように、やたらと前屈みになった姿勢で登場して、玄関などにたどり着いたらピンと姿勢を正し、
「ごめんください」
「どなたですか?」
「○○です」
「お入りください」
「ありがとう」
と1人芝居するシーンは有名ですよね。
私生活では10歳年上で、3人の子供を持つシングルマザーの人と結婚されています。
夢路いとし・喜味こいし師匠に結婚を反対されたそうですが、その反対を押し切って結婚したそうです。
今はステップファミリーという呼び方もあり、子連れ結婚に対するイメージも変わってきていますが…。
出典:サンスポ
桑原和夫さんが結婚されたのは吉本に入る前みたいなので、時代的に子持ちの人との結婚というのはマイナスなイメージしかなかったのでしょう。
寿一実(2023年)
出典:吉本興業株式会社
寿一実さんはスキンヘッドがトレードマークで、その風貌を活かしたハゲネタを数多く披露していました。
2023年5月5日に亡くなっていますが、死因は不明です。
66歳でした。
出典:天神経済新聞
吉本興業の発表によると長崎県内の病院で亡くなられたということなので、何か病気があったのかもしれません。
吉本新喜劇に入団したのは1976年です。
副座長の経歴もあり、1989年に一度、連帯保証人となった先輩芸人の借金を返済するために引退します。
ふるさとの佐世保で不動産業で全額返済したそうです。
吉本興業が九州に進出することになり、地元タレント育成のために、1992年に福岡吉本で芸能界に復帰。
そのあとは、福岡や長崎のローカル番組に出演します。
そして2018年、九州新喜劇を立ち上げ初代座長に就任します。
財津一郎(2023年)
出典:読売新聞オンライン
「ピアノを売ってチョーダィ!」のフレーズや「もっともっとタケモット~」のフレーズが印象的なCMで知られている財津一郎さん。
このCMを赤ちゃんに見せると泣き止むって、一時期、話題になったこともありましたね。
慢性心不全により、2023年10月14日に89歳で亡くなりました。
出典:NEWSポストセブン
1962年に吉本興業に入り、1964年から吉本新喜劇に参加します。
翌1965年には座長に就任しました。
初期のころはサラリーマン役が多かったのですが、そのあとは老け役が多くなっていきます。
藤田まことさんが主演を務めていた「てなもんや三度笠」に浪人役で出演。
出典:産経新聞
そのときに、手を頭の後ろから回して反対側を耳を掴み、甲高い声で叫ぶ「ヒッジョーにキビシ〜ッ!」「〜してチョーダィ!」というギャグや、抜いた刀の刃をなめまわす動きが話題となり、一世風靡します。
「ピアノを売ってチョーダィ!」は、財津一郎さんのギャグから来ていたんですね。
1969年に吉本興業を退社し、活動拠点を東京へ。
出典:NHKアーカイブス
1970年代前半は喜劇作品に出演していましたが、さまざまな映画やドラマにも出演するようになります。
1995年に脳内出血を発症。手術後に軽い麻痺が残ったもののリハビリに励み、テレビドラマの仕事に復帰します。
2011年に「3年B組金八先生ファイナル」に出演し、そのあとは亡くなるまで芸能活動を休止します。
竹本浩三(2022年)
出典:朝日新聞デジタル
吉本新喜劇の芸人ではありませんが、竹本浩三さんも吉本新喜劇には欠かせない1人です。
彼がいなかったら、今の吉本新喜劇はなかったと言っても過言ではないでしょう。
2022年2月18日、89歳で亡くなりましたが死因は公表されていません。
出典:スポニチ
しかし、老衰ではないかと思います。
近年、病気をしていたという情報はなく、記事には大阪府内の自宅で死去と書かれています。
竹本浩三さんは脚本家や演出家など、裏方のお仕事をされていました。
下ネタを排除したり、弱くて憎めない極道など根っからの悪役を作らないようにしたりなど、今の吉本新喜劇の礎を築いています。
出典:朝日新聞デジタル
確かに、吉本新喜劇に出てくるヤクザってどこか抜けているところがあって憎めないキャラとなっていますよね。
吉本新喜劇の定番?小道具のスリッパも、実はひと工夫されていたようです。
スリッパの底にはフェルトが貼ってあって、叩かれても痛くないんだとか。
だけど、フェルトのおかげで音が大きくなり痛そうな音が聞こえるそうです。
出典:大阪日日新聞
大阪には吉本新喜劇のほかに松竹新喜劇もありますが、松竹新喜劇との違いを出すためにセリフを早口にしてテンポよくするなどもされています。
竹本浩三さんいわく、「テンポの早さについていけないのなら、松竹へ行けばいい」「吉本は松竹より10歳若い観客を狙った」とのことです。
高石太(2020年)
出典:ORICON NEWS
高石太さんといったら、大きな体と太鼓腹を活かした芸が有名ですね。
喧嘩やいざこざの仲裁に入ったときに、プロレスのハンマースルーのように降り飛ばされ、腹から滑ったあと起き上がり、服をめくって太鼓腹をさすりながら「熱う~!!熱う~!!」と叫ぶギャグは話題となりました。
副座長の座を手にしますが、1987年初旬に吉本新喜劇を退団します。
出典:ライブドアニュース
同時期に退団した木村明さんと漫才コンビを結成するものの、2年も経たずに解散。松竹新喜劇に移籍します。
松竹新喜劇を退団後は「あつあつ一座」を結成し、地方公演を中心に活動しました。
2008年に北海道札幌市に移住し、市民劇団「教文13丁目笑劇一座」に所属します。
出典:X
喜劇ワークショップやボランティア活動をしていたそうです。
2020年1月31日、虚血性心疾患により、71歳で亡くなりました。
チャーリー浜(2020年)
出典:サンスポ
チャーリー浜さんといえば、「○○じゃあ~りませんか」のフレーズが有名ですね。
このフレーズは1991年の新語・流行語大賞を受賞しています。
チャーリー浜さんの活躍により吉本新喜劇は東京進出を果たしたと言っても過言ではなく、東京をはじめとする全国で吉本新喜劇のブームが起きました。
2020年に体調を崩され、呼吸不全および誤嚥性肺炎のため2021年4月18日、78歳で亡くなります。
1960年、花登筐さんが主宰する「笑いの王国」に入団。このときに花紀京さんと知り合い、1962年に共に吉本興業に移籍、吉本新喜劇に入団します。
にこやかな印象が強いチャーリー浜さんですが、同じ芸人に対してはかなり厳しく、「他人には厳しく、自分には甘い」と批判されることも多かったようです。
出典:Wikipedia
番組の企画でおぎやはぎの小木博明さんが吉本新喜劇の舞台に立った際、ほかのメンバーが優しく接しているなか厳しく接したり、山田花子さんをビンタしたなどの逸話があります。
晩年は吉本新喜劇の出演時間が短くなっており、拘束される時間が長いからとNGKでの出演もほとんどなくなります。
出典:朝日新聞デジタル
チャーリー浜さんの活躍を期待する声が多いなか、舞台に溶け込もうとしないその姿勢は、「自分に甘い」と見なすものもいたようです。
吉本きっての奇人変人といわれていたそうですが、芸人さんらしいといえばらしいのではないでしょうか。
船場太郎(2020年)
出典:日刊スポーツ
「セン・バタロウです」と名乗るギャグが人気で、大阪市議会議長も務められた船場太郎さんは2020年11月27日に81歳で亡くなりました。
1991年に大阪市議会議員選挙に出馬して当選。6期24年、大阪市議会議員を務めて2019年に旭日小綬章を授与されます。
死因は公表されていませんが、亡くなる1年以上前から体調を崩されていたようです。
1965年に吉本新喜劇に入団しますが、その前はバンドをされていました。
議員になってからは一切、テレビや新喜劇には出ず、議員活動に専念します。
大阪にオリンピック(2008年大会)を誘致するために活躍されていたこともあります。
山田スミ子(2019年)
出典:スポニチ
家政婦は見た!シリーズや朝ドラなど数々のドラマに出演されていた山田スミ子さんですが、実は吉本新喜劇出身。
キレ芸が有名で、吉本新喜劇のマドンナでした。
2019年2月12日、73歳で生涯を閉じます。死因は直腸がんです。
宝塚映画製作所で子役として活動し、1963年に吉本新喜劇に出演。1968年に吉本新喜劇に入団しました。
1982年頃までレギュラー出演をしていて、初の女座長を務めたこともあります。
吉本新喜劇を退団したのはいつなのかは情報がなかったのですが、退団後は東京の事務所に所属して活動されていました。
亡くなる十数年前から母親の介護と女優業を両立していて、2017年に母親が亡くなってから体調を崩したそうです。
診断は直腸がん。約2年、闘病生活を送っていましたが、周りに心配をかけたくないと、誰にも病気のことは打ち明けずに舞台に立っていたんだとか。
出典:日刊スポーツ
母親の介護や自身の病気など、それを1人で抱えながら仕事を続けるのはなかなか大変だったのではと思います。
母親が亡くなってから体の異変に気付いたそうですが、もしかしたらその前から異変はあったのかもしれません。
でも、母親の介護で手一杯でそれどころではなかったのかなと。
出典:スポーツ報知
結婚もされていなかったですし、誰か1人でも頼れる方がいたらもう少し長生きできたのではと思わずにはいられません。
木村進(2019年)
出典:スポーツ報知
弱冠23歳という若さで吉本新喜劇の座長の座を手にした木村進さんは、ボケとツッコミの両方ができ、さらに二枚目を売りにするなど異色のキャラとして知られていましたね。
おばあさん役が有名で、「イーッヒッヒッヒッヒッ…」という独特の笑い声や座布団に正座したまま飛び上がるなどのギャグが有名でした。
1988年に脳内出血で倒れ、一命は取り留めたものの左半身に重い障害が残ります。
出典:サンスポ
歩くこともままならず吉本新喜劇を退団し、フリーで活動するようになります。
2019年5月19日、腎不全により68歳で亡くなりました。
間寛平さん、池乃めだかさんら吉本新喜劇新旧メンバーだけでなく、桂文枝さんやオール巨人さんなど吉本所属の芸人たちが式に参列しています。
退団されていても仲間に慕われていたことがわかりますね。
家族は芸能一家で、祖父は初代博多淡海、父は2代目博多淡海、母は博多淡子です。
高校を中退して淡海劇団に入門しますが、親の七光りや父親の重圧に耐えられず、吉本へ。
お父さんやおじいちゃんが偉大だと、どうしても周りからも期待されてしまいますし、かなりのプレッシャーがあったのでしょう。
出典:スポーツ報知
それでも芸を辞めなかったのは、それだけ芸事が好きだったからなんだろうなと思います。
吉本を選んだのは、もしかしたら反抗心もあったのかもしれませんね。
そのせいでお父さんとは絶縁状態になりますが、後年、お父さんが吉本新喜劇の舞台に上がって「木村進をよろしくお願いいたします」と土下座。和解が成立します。
出典:Wikipedia
絶縁状態とはいえ、お父さんは木村進さんを応援していたのでしょう。
倒れてからは表舞台から姿を消していましたが、1999年10月10日に間寛平さんの「間寛平芸能生活30周年記念公演」に電動車いすに乗ってゲスト出演します。
現在はほかの人が経営していますが、1990年代後半ごろまでは大阪で100円ショップを経営していて、大阪の100円ショップの発祥とされているそうです。
室谷信雄(2018年)
出典:X
室谷信雄さんは1970年代から1984年まで吉本新喜劇で活躍し、座長として多くの芸人から慕われていました。
1984年に咽頭がんにより声を失い、引退します。
2018年12月5日に72歳でその生涯を終えますが、死因は公表されていません。
出典:X
2ヶ月後の2019年2月11日の誕生日のときに、間寛平さんがXで亡くなったことを報告しました。
若い時から頭髪が薄く、そのことをいじられるのが定番でした。
室谷信雄さんのふるさとの泉佐野市が玉ねぎの産地として知られていたため、「玉ねぎを食べ過ぎた」「玉ねぎの祟り」などといわれていましたね。
出典:X
トイレの詰まりを直すラバーカップを頭につけ、そのまま引っ張りまわすギャグはとくにインパクトがありました。
泉州弁で「ごちゃごちゃ言うとったら、しゃーきまっそー!よ、ワ~レ~」という叫び声もインパクトがあり、当時は関西の子どもたちがよく真似をしていました。
出典:朝日放送テレビ
当時は吉本新喜劇のメンバーと漫才などをする芸人の間には壁があったそうですが、室谷信雄さんは当時の若手芸人であった島田紳助さんや明石家さんまさんにも常に敬語で積極的に声を掛けていたんだとか。
そのため、先輩後輩問わず多くの人に慕われたそうです。
1985年に芸能界を完全引退し、自身の心境の変化や仲間に迷惑をかけたくないという思いから、それまでの人間関係からも遠ざかります。
多くの人が室谷信雄さんを慕っていましたし、誰も迷惑だと思わないはずです。
なのに迷惑をかけたくないと考えるというのは、室谷信雄さんの謙虚な性格がうかがえますね。
アースマラソン中の間寛平さんを激励するために、2010年8月29日に放送された24時間テレビに出演しますが、これが芸能界引退以来の本格的なテレビ出演でした。
間寛平さん自身もがんを患っていたことや、自身ががんになったときに間寛平さんが病院探しをしてくれた恩から出演を決めたそうです。
2011年には行列のできる法律相談所に出演し、島田紳助さんとも再会しています。
中山美保(2017年)
出典:お笑いナタリー
吉本新喜劇の「ミポリン」こと、中山美保さんは吉本新喜劇のマドンナとして活躍されていました。
関西のテレビ番組にレギュラー出演し、若き日のダウンタウンと共演していたこともあります。
2017年2月7日、肺血腫による呼吸困難で78歳でお亡くなりになりました。
難病を患い表舞台からは姿を消していましたが、突然の訃報に驚いた人も多かったのではないでしょうか。
出典:サンスポ
2009年末頃から体調を崩していたのですが、再生不良性貧血によるものだったそうです。
再生不良性貧血は指定難病の1つで、血液中にある白血球、赤血球、血小板のすべてが減少する病気です。
ロンドン五輪の女子ダブルスで銀メダルを獲得した、元バトミントン選手の藤井瑞希さんも2022年に再生不良貧血と診断されたことを公表していましたよね。
出典:X
それからは表舞台から姿を消し、療養生活を送っていました。
1967年に吉本新喜劇でデビューし、それからずっと吉本新喜劇を支えてきた中山美保さん。
デビュー当時は美貌女優として活躍していましたが、後年は女学生や母親などの役が多かったですよね。
特にセーラー服姿はインパクトがあったので、記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。
出典:X
持ちネタはないのですが、がに股で大股歩きして息子役などの共演者に「足、足、足」と注意されるのが鉄板ネタでした。
中山美保さんの旦那さんは、昭和の漫才王、横山エンタツ・花菱アチャコのエンタツさんの長男です。
旦那さんはすでに亡くなっているそうですが、旦那さんのつてをたよって沖縄県の石垣島で療養していたという情報もあります。
島木譲二(2016年)
出典:サンスポ
上半身裸で、胸を平手で叩く「大阪名物パチパチパンチ」で知られる島木譲二さんは、2016年12月16日に脳溢血により亡くなります。72歳でした。
子どもの頃、吉本新喜劇をテレビで見ていた記憶がありますが、島木譲二さんの大阪名物パチパチパンチはインパクトがあって、今でも覚えています。
元々はボクサーでしたが、怪我により続けられなくなります。
芸人を希望していたことを知った友人の間寛平さんから吉本興業を紹介してもらい、1980年に吉本新喜劇に入団。
見た目が強面だったことから、悪役が多かったそうです。
大阪名物パチパチパンチは台本にあった「ゴリラみたいに」という指示から、アドリブで生まれたギャクです。
出典:ORICON NEWS
ほかにも、頭を灰皿で叩く「ポコポコヘッド」や一斗缶で頭をぶつける「カンカンヘッド」などの派生芸もあります。
2011年に体調を崩し、通院治療を受けます。
回復のために芸能活動を休止し、自宅治療に専念しますが、残念ながら再び舞台に立つという夢は叶いませんでした。
井上竜夫(2016年)
出典:ORICON NEWS
井上竜夫さんといったら「竜じい」の愛称でおなじみですね。
「おじゃましまんにゃわ」のフレーズが耳に残っている人も多いでしょう。
2016年10月5日、高度肺気腫により74歳で亡くなりました。
吉本新喜劇に入団したのは1963年です。
出典:Wikipedia
足元のおぼつかないおじいちゃん役が多かったですが、住職である父親の元を訪れるお年寄りたちを参考にしていたそうですよ。
2014年9月に行われていた公演中に体調不良となり、舞台を降板。1ヶ月程で復帰予定だったそうですが、呼吸器系に持病があったので休養をとることになります。
出典:Yahoo!ニュース
2015年12月に大阪で行われた「吉本新喜劇まつり!2015」で復帰を果たしますが、残念ながらこれが最後の舞台となりました。
翌2016年に再び体調を悪くし、10月5日に死去します。
最後の言葉は「また明日」だったそうです。
原哲男(2013年)
出典:シネマトゥデイ
四角い顔、黒い丸ぶち眼鏡、ひげがトレードマークで、「カバ」の愛称で親しまれていた原哲男さん。
「誰がカバやねん!」「死なん程度に殺したる」などのギャグが有名です。
2013年1月13日、肝がんにより78歳で亡くなりました。
1963年に吉本興業に入り、吉本新喜劇で活躍。1969年には座長に就任されています。
出典:X
原哲男さんの「カバ」という愛称に関する面白いエピソードも。
1983年に大阪市の天王寺動物園のカバが出産して名前を公募したのですが、圧倒的多数で「テツオ」に決まったそうです。
ですが、原哲男さん自身はカバに似ているといわれるのが嫌だったんだとか。
出典:Wikipedia
テレビの企画でカバに似ている芸能人としてオファーを受けた際、「舞台での設定」と言って断ったそうです。
1990年に吉本新喜劇を退団後は親交のあった藤田まことさんの作品に出演するようになります。
岡八郎(2005年)
岡八郎さんは吉本新喜劇で座長を務め、「奥目の八ちゃん」として親しまれていました。
花紀京さんや原哲男さんたちと共に吉本の中心人物として活動しており、「くっさー」「えげつなー」などのギャグが有名です。
1993年に胃がんを患い、1995年には急性膵炎を発症します。そして2005年7月26日、肺炎による呼吸不全が原因で67年の生涯を閉じました。
出典:X
吉本新喜劇に入団したのは1959年です。
1960年に漫才に転向しますが相方が自殺し、役者を諦めきれず吉本新喜劇に復帰。座長に就任しました。
極度のあがり症で緊張を誤魔化すためにお酒を飲んだり、元々の酒好きが高じてアルコール依存症を患っていたこともあります。
私生活もトラブル続きで、結核を患ったり大病したり、1996年には自宅で転倒して脳挫傷を発症します。
記憶障害という後遺症が残り、セリフを覚えられず、事実上の引退となりました。
花紀京(2002年)
出典:産経ニュース
横山エンタツさんを父に持ち、岡八郎さんと並んで吉本新喜劇の二大巨頭と呼ばれていた花紀京さんですが、2015年に亡くなっています。
ダウンタウンをはじめとする吉本の芸人とユニット、Re・japanを結成し、紅白歌合戦に出場したこともあります。
紅白に初出場した翌年の2002年8月、脳腫瘍を発症。
2003年から療養生活を送っていましたが、2015年8月15日に肺炎のため78歳で生涯を閉じました。
約13年の闘病生活でした。
出典:産経ニュース
少年時代は笑芸には興味がなかったそうですが、寄席は好きだったそうです。
しかし横山エンタツさんに芸能界入りを反対され、大学に進学します。
それでも夢を諦められず、大学を中退して麻雀仲間の花登筺さんに弟子入りします。
1959年に劇団を立ち上げ、劇団解散後の1962年に吉本入り。
出典:時事ドットコム
花紀京さんの芸名は師匠である花登筺さんにちなんでおり、花登筺さんの「花」とご自身の本名「京三」から「ききょうの花」をひっくり返した「花紀京」となったんだとか。
1963年に吉本新喜劇の座長を任され、1969年まで座長を務めます。
1989年に吉本新喜劇を退団後は映画やテレビドラマなどに出演されました。
お弟子さんには、チャーリー浜さん、レツゴーじゅんさん、間寛平さんがいます。
出典:サンスポ
ニット帽、シャツ、腹巻、ニッカーボッカーを着用し、目の下にはクマ、そして赤く塗られた赤い鼻がトレードマークでしたよね。
間の取り方がうまくて、値段を聞かれて「ほな、百万円」と答えたり、食事をしたばかりなのに「腹減った」と言ったり。
どれも味のある演技でした。
横山やすし(1996年)
出典:アサ芸プラス
破天荒な性格で、歯に衣着せぬ発言などまさしく芸人といった感じの横山やすしさんは、稀代の天才漫才師ともいわれていました。
お酒好きで、そのせいで数々の問題を起こし、1989年に吉本を解雇。
1996年、大阪の自宅で心肺停止状態になっているのを発見され救急搬送されます。
しかし残念ながら、アルコール性肝硬変によって51歳で亡くなりました。
出典:Smart FLASH
中学卒業後に同級生の岡田さんと少年漫才師として松竹新演芸に入社します。
その後、相方の岡田さんが廃業しコンビは解散。
横山ノックさんに誘われ、内弟子となり吉本興業に移籍します。
1966年、西川きよしさんと「やすしきよし」を結成。
結成当時はコンビ仲が良くなかったそうです。
横山やすしさんは飲み込みが早かったため、あまり稽古はしなかったんだとか。
一方の西川きよしさんは台本の読み合わせを10回以上しないと気が済まない性格だったため、稽古について揉めていたそうです。
しかし紆余曲折もありながら、1970年に第5回上方漫才大賞の大賞を受賞するなどどんどん人気を集めていきます。
そんななか、1970年に最初の事件が起きます。
タクシーと接触事故を起こすのですが、横山やすしさんは無免許であり、かつ抗議した運転手に暴行を働くというショッキングな事件でした。
4ヶ月後に劇場、執行有明けの1973年にテレビ復帰します。
出典:Wikipedia
ですが、1977年にまた事件を起こします。
乗車したタクシーの運転手と口論し、暴言を吐き車に蹴りを入れます。
侮辱罪で訴えられ、10万円の慰謝料支払いを命じられました。
1962年から日本テレビの「久米宏のTVスクランブル」のコメンテーターとしてレギュラー出演を果たしますが、酒に酔った状態で生放送に出演し暴言を吐くという問題を起こします。
ほかにも、コメントの途中にCMが入ったことに立腹し、まったく喋らないことも。
渋滞により飛行機に乗り遅れ番組に穴を開けたため、1984年に番組を降板します。
1986年に西川きよしさんが参議院に出馬し当選してから、さらに歯車が狂い始めます。
本人の口からは何も語られていないのですが…。
出典:Wikipedia
上岡龍太郎さんや当時のマネージャーだった大谷由里子さんによると西川きよしさんが政治家としての道を選んだことに失望したのではと語られています。
1986年に不摂生から吐血し緊急入院し、退院の会見で禁酒宣言をします。
しかし1987年にスター爆笑Q&Aに酒気帯び状態で出演し、ゲスト出演していた片岡鶴太郎さんに食ってかかります。
出典:デイリー新潮
このときは大谷由里子さんが諫めたそうですが、これが原因で番組を降板。
「三枝やすし興奮テレビ」では桂三枝さんと司会を担当していましたが、1988年10月に二日酔いで出演をドタキャンしたため番組を降板します。
1988年、長男がタクシー運転手に対する傷害事件を起こし、責任を負うために無期限謹慎を申し出ます。
出典:BS朝日
1989年3月に西川きよしさんが司会を務める「すてきな出逢い いい朝8時」で芸能界に復帰し、西川きよしさんからは「心を入れ替えて頑張れ」といわれ、「心を入れ替えて頑張ります」と宣言しました。
吉本興業からは「次、不祥事を起こしたら専属契約を解除」と最終通告を受けている状態でした。
しかし1989年4月17日、酒気帯び運転でバイクとの人身事故を起こし、ついに解雇されます。
かなり破天荒な人生を歩んでいた横山やすしさんですが、葬儀・告別式には芸能関係者やファンをあわせて総勢2000人以上が参列していたそうです。
破天荒な性格も含めて、横山やすしさんがみんなから愛されていたんだなとわかりますね。
まとめ
出典:サンスポ
1959年に発足した吉本新喜劇ですが、その長い歴史のなかにはさまざまな喜劇人がいました。
それぞれが個性を持っており、生前は多くの人たちを楽しませていました。
彼らは今、天国で人々を楽しませているのでしょうか。
天国でも楽しい時間を過ごしていることを願います。
吉本新喜劇の歴代のマドンナについて気になる方はこちらの記事をご覧ください。
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