テレサテンの死因の真相は喘息ではなく暗殺だと噂される理由が衝撃!

現在の日本の音楽界で活躍する外国籍のアーティストで思い浮かぶのは、K-POPアーティストの方達でしょう。

特に韓国政府が国策として、自国のエンタメ支援を行う様になってからは活発になりましたが、昭和時代も、韓国はもちろん、香港台湾出身のアーティストも活躍していました。

今回の記事は昭和時代に活躍した台湾出身のアーティストで『アジアの歌姫』と呼ばれたテレサ・テンの死因について紹介します。

テレサテンの死因は気管支喘息で死亡写真が衝撃的!

日本での活躍の後、1989年にフランスに移住しています。

フランスでも歌手活動を行っていましたが、フランスに移住以降は表舞台に出る事も少なくなっていきます。

また移住後には喘息を悪化させて体調が悪化していく事になります。

日本での最後の活動1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』となりました。

喘息の静養の為に、タイ・チェンマイのメイピンホテルを度々利用していたそうですが、1995年5月8日に同ホテルで気管支喘息の発作を起こし、病院に搬送されましたが、亡くなられてしまいます。

本来は救急車で10分くらいの距離だったそうですが、搬送された時は交通事情が悪かったらしく、到着まで30分も要したそうで、病院到着時には亡くなっていたそうです。

日本でも上記の様に大きく報じられました。

地元の台湾では国葬が行われ、当時は世界各国から3万人ものファンが訪れたそうです。

またテレサ・テンさんは台湾だけでなく、日本、中国、アジアの各国でも高い人気だった為、ご遺体は火葬されずにエンバーミングを施されて土葬されたそうです。

その為、没後から50年程度は生前の姿を留めたままで保管される事になるそうです。

台湾ではこの様な措置がとられたのは蔣介石、蔣経国に続いて3人目だそうです。

テレサ・テンさん以外は台湾の政治家なので、英雄並みの扱いになっているのが分かるかと思います。

なお、喘息で亡くなられていますが、子供の頃からの持病だったかについては不明の様です。

家族の証言では喘息持ちと言われていますが、仕事関係者からはそういった喘息の症状を一度も見た事が無いとの証言もあります。

テレサテンは過去に死亡説や暗殺説が囁かれた事もある

前述した様に、1995年に42歳の若さで亡くなられていますが、実はそれ以前にも死亡説暗殺説2度ほど噂された事があるそうです。

1度目は1990年5月~6月に病死説が噂されました。

なぜそのような噂が出たのかですが、父親の葬儀に欠席した事から病気を疑われた様です。

2度目はその翌年の1991年4月から5月頃に同じく病死説や暗殺説が出たそうです。

1度目については噂の元になる出来事があったようですが、2度目については根拠となる様な出来事は無かった様で、単純にメディアに出る事が減った事が原因かも知れません。

実際に90年頃から表舞台から距離を置いている事も影響したのかも知れません。

ただ、この2回の噂に関しては本人は否定のコメントを出しており、新聞などでも報じられたそうです。

95年に亡くなった時もはっきりとした死因が発表されたにも関わらず、暗殺説もささやかれる事が多くありました。

アジアという広い地域で人気があった歌手でしたが、あくまで一人の芸能人であるのに、テレサ・テンさんについてはいろいろな噂が囁かれていました。

なぜそこまで言われるのかについては、テレサ・テンさんの出自が大きく影響しています。

両親が中国出身の外省人であり絶大な人気を誇る

テレサ・テンさんは台湾で生まれていますが、両親の出身は中国父親は職業軍人でした。

ここで少し歴史の話となりますが、第2次世界大戦前後の中国と台湾の状況が大きく関係しています。

小学校や中学校の歴史で習ったと思うので、覚えている人もいるかと思いますが、第2次世界大戦中は中国の一部(満州)と台湾は日本が統治していました。(当時の中国は中華民国)

そして第2次世界大戦後に毛沢東と蒋介石による内戦があって、毛沢東が勝利し、蒋介石は台湾に渡り、現在の中国(中華人民共和国)中華民国(台湾)になりました。

テレサ・テンさんの両親もこの時に中国大陸から台湾に渡っており、外省人(がいしょうじん)と呼ばれる人達でした。

その為、中国にとってはかつての政敵の娘という事になり、厄介な存在だったという訳です。

さらに、テレサ・テンさんが活躍した時代は、中国でも高い人気を誇っており、その影響力を恐れた中国政府により、一時期は歌を禁止にする措置を取ったほどでした。(1983年)

それでも闇ルートでテレサ・テンさんの音楽は流通していたそうです。

2009年中華人民共和国建国60周年の時に「新中国で最も影響力のある文化人物」としてネット投票が行われています。

192人の候補から投票が行われ、854万票を獲得したテレサ・テンさんが一位となりました。

全投票の35%を獲得する程の高い得票だったそうです。

当然この様な出自で絶大な人気を誇るテレサ・テンさんを台湾政府が放置する訳がなく、台湾政府の広告塔として利用したのは言うまでもありません。

当時の中華民国国軍の慰問を行うテレサ・テンさんの画像が多く残っています。

テレサ・テンさん自身は将来の夢として中国でコンサートを開くことを目標としていました。

テレサ・テンさんご本人は直接的な政治活動は行っていませんが、政治活動家を支援する活動はおこなっていました。

当時の中国には民主化の動きもあり、中国でテレサ・テンさんがコンサートを行う可能性も有ったそうです。

ですが、1989年に起こった天安門事件でその機運も無くなってしまいました。

中国にとっては影響力があり過ぎた人物だった為、病死説や暗殺説が絶えなかった原因かも知れません。

まあこれは筆者個人の見解ですが。

他にも亡くなられた時はエイズ説や当時の恋人だった人物の影響で薬物使用の噂もあったそうです。

当時はまだネットも普及する前なので、いい加減な噂も多かった様です。

喘息の発作で亡くなったのは紛れもない事実ですが、司法解剖されなかった事も噂に影響した様です。

テレサテンは現在も『アジアの歌姫』と呼ばれている

テレサ・テンさんは昭和世代には説明不要なくらいに有名な人物ですが、平成・令和世代は知らない人が圧倒的かと思います。

その為、経歴等を紹介しますが、細かく紹介するとこれだけで記事1本は余裕で書ける人物なので、主に日本で活躍した頃に絞って簡単に紹介したいと思います。

  • 名前:テレサ・テン(自身のカトリック洗礼名を転用したもの)
  • 中国名:鄧麗君(デン・リージュン)
  • 本名:鄧麗筠(デン・リーユン)
  • 生年月日:1953年1月29日
  • 没年:1995年5月8日(42歳没)
  • 出身地:中華民国台湾省雲林県褒忠郷田洋村
  • 活動期間:1967年~1995年

テレサ・テンさんは1953年生まれなので、年齢を考えれば現在も存命しているはずなのですが、残念ながら1995年に42歳という若さ亡くなられています。

日本でテレサ・テンさんが有名になるのは、上記の『つぐない』がヒットした1984年ですが、この時は日本では再デビューとなっており、元々のデビューは1974年だそうです。

1974年に日本でデビューし10年後にブレイク

上記が1974年に発売された日本でのデビュー曲でした。

当時21歳の時でした。

また日本ではこれがデビューとなっていますが、当時は既にアジアではスター歌手として広く知られていました。

10歳の時にラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝し、14歳で歌手デビューしています。

16歳の時には女優デビューも果たしています。

その人気は地元台湾だけでなく、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気で、18歳で香港でもレコードをリリースしています。

日本でのデビュー曲は、アイドル路線の曲だったそうですが、全く売れなかったそうです。

2作目に発売されたのが上記の『空港』です。

この曲は前作とは路線変更され、演歌歌謡曲路線に変わりました。

2度目のブレイクの時もそうですが、日本でのテレサ・テンさんと言えば、演歌歌謡曲を唄うアーティストとして活躍しました。

ですが、台湾や香港ではいわゆるポップス系の作品を多くリリースしており、演歌や歌謡曲は数あるレパートリーの一部に過ぎなかったそうです。

後年は日本のJ-POPの楽曲をカバーしたり、そちらの系統の楽曲を多くリリースしていました。

2枚目のシングルの『空港』が大ヒットし、日本レコード大賞の新人賞も受賞しています。

これ以降は人気歌手として日本でも活動する様になります。

ところが1979年2月インドネシアのパスポートで来日しようとしたために、旅券法違反で国外退去処分となり、最低1年間は日本に入国できない状態となってしまいます。

当時のニュースが上記画像ですが、実際には偽造パスポートで不法入国したのではないそうです。

この様に報じられた理由は当時の日本と中国、台湾との状況が大きく関わっていました。

冒頭でも触れましたが、テレサ・テンさんは台湾出身です。

事件の7年前の1972年に中国と日中国交正常化を結んでおり、その余波で中国と対立する台湾とは国交を断絶した状態でした。

その為、台湾のパスポートで日本へ入国する場合は大変煩雑な手続きが必要だったそうで、当時の台湾の著名人はインドネシアのパスポートを使用して日本へ入国していたそうです。

またインドネシアのパスポートも正式な手続きで発行された本物でした。

ですが、当時の中国との関係を考慮した為に、上記の様な報道となった様です。

この騒動の後、当然台湾政府がテレサ・テンさんの身柄の引き渡しを要求したそうですが、そうなった場合、しばらくは自由な歌手活動ができないと日本での活動をサポートしていた舟木稔氏は危惧したそうです。

その結果、テレサ・テンさんはアメリカに渡る事になり、日本での活動もいったん終了という形となりました。

(当時は留学という形でアメリカに逃がした様な状況だった)

最初の日本でデビューから10年後、1984年に再度日本でのデビューを果たします。

その時に発売されたのが、『つぐない』でした。

この曲は翌年に日本有線大賞をはじめ数々の賞に輝くのですが、発売当初は全くといって良いほど売れなかったそうです。

『つぐない』で再び日本での人気を獲得すると、続く『愛人』『時の流れに身をまかせ』大ヒットし、3年連続の日本有線大賞を獲得するという偉業を達成します。

またこれらの3枚のシングルはいずれも100万枚を超えるセールスとなり、『つぐない』と『愛人』は約150万枚。

『時の流れに身をまかせ』は約200万枚となる大ヒットとなりました。

85年と86年には紅白歌合戦にも出場しています。

これ以降は香港に居を構え、日本を中心に活動する様になります。

まとめ

今回の記事ではテレサ・テンさんの死因について紹介しました。

テレサ・テンさんは現在でも『アジアの歌姫』と呼ばれる程の人物ですが、発売した作品の累計の売り上げは、少なく見積もっても1億枚は越えるそうです。

日本でも約260曲、中国では1000曲を超える曲をリリースしているそうです。

2024年で生誕71周年となるそうなので、また注目される可能性もありそうですね。

テレサ・テンの死因についてのまとめです。

  • テレサ・テンさんは台湾出身で1953年1月29日生まれ
  • 両親は中国の生まれで、毛沢東との内戦に敗れて台湾に移住した外省人
  • 台湾では14歳で歌手デビューしている
  • 日本では1974年23歳の時にデビューしているが、79年に国外追放になっている
  • 1984年に日本再デビューし、『つぐない』『愛人』『時の流れに身をまかせ』等が大ヒットする
  • 1989年フランスに移住、その後喘息で体調を壊す様になり1995年5月8日に静養で滞在していたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息の発作を起こし、病院に運ばれるも亡くなっている
  • テレサ・テンさんには存命中に2回程病死説や暗殺説が噂された事がある
  • 1995年に亡くなった時も暗殺説や別の死亡説が噂された

フィギアスケートで活躍した浅田真央さんは現在はプロスケーターとして活躍されていますが、テレサ・テンさんとの関りがある事が報道されています。

一時期選手を休養していた2015年に現役続行の意思表示を行った事がありますが、その時の決断に大きく影響したのがテレサ・テンさんだったそうです。

1991年生まれの浅田真央さんはテレサ・テンさんが存命中の生まれですが、既に一線から退いた頃なので、リアルタイムではテレサ・テンさんの歌は聞いた事は無いと思われます。

ですが、当時の浅田真央さんの心の支えになっていたそうなので、やはりアーティストという職業は人に影響を与える仕事だというのが良く分かりますねぇ。

現在でもSNSで話題が絶えないくらいですから、昨今の昭和時代の曲が注目されている様に、テレサ・テンさんにも注目が集まっている様ですね。

現在でも『アジアの歌姫』と呼ばれるのは伊達じゃないって事ですね。

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