昭和の時代に大活躍したコメディアンであり、プロボクサーとして日本チャンピオンにもなったこともあるたこ八郎さん。
『笑っていいとも!』など数々の人気番組に出演している人気絶頂の中、突然の死を迎えることになります。
たこ八郎さんの人生は壮絶で、令和にまで語り継がれる伝説をいくつも残しています。
ここではそんなたこ八郎さんの死因や伝説、有名人との交流についてご紹介します!
たこ八郎って何者?語り継がれる数々の伝説!
- 本名:斎藤 清作(さいとう せいさく)
- 芸名:たこ八郎
- 生年月日:1940年11月23日
- 出身地:宮城県仙台市宮城野区新田
- 職業:プロボクサー コメディアン 俳優
たこ八郎さんは8人兄弟という大家族の次男坊として宮城県仙台市に生まれますが、凄い大家族だったので、あまり裕福ではなかったようです。
まあ、この時の貧乏生活が後のプロボクサーとしての大活躍につながっていったのだと思いますが(笑)
プロボクサーでフライ級のチャンピオン
たこ八郎さんは仙台育英高校に入学後ボクシングを始めましたが、2年生の時には宮城県の大会で優勝しており、ボクシングに熱中していました。
ボクシングを初めて1年で優勝するなんてすごい才能の持ち主ですね!
高校卒業後は上京し、笹崎ボクシングジムに入門し、本格的にプロの道へと進んでいきます。
みるみる上達していったたこ八郎さんですが、東日本新人王戦では同じジム所属のファイテイング原田さんと対決することになり、試合を辞退しています。
同門対決になり新人王のタイトルよりも義理や人情をとったんですね。
男としてかっこいいですね^^
ボクサー時代のたこ八郎さんは本名の斉藤清作としてリングに上がっていましたが、河童のように髪型を刈り込んでいたことから「河童の清作」と呼ばれていました。
たこ八郎さんのファイティングスタイルは独特で、相手のパンチを避けずにわざと受けて、相手が打ち疲れたところにラッシュをかけるというものでした。
まさに捨て身の戦法ですし、ファンの方からしたら毎回ドキドキさせられ見ていて面白い試合です!
しかしその一見無茶なファイトスタイルには理由があります。
実はたこ八郎さんは、子供の頃友達との泥遊びで泥が左目に入り、左目の視力をほとんど失っています!
あまり裕福ではない家庭のため、親に迷惑がかかると思ったたこ八郎さんは、左目のことを誰にも言わず病院にもいきませんでした。
相手のパンチをわざとくらうスタイルは、左目が見えてないことを相手に悟られない為の戦法だったのです!!
そこまでするのには左目のハンデを感じさせず、相手と正々堂々戦いたいという侍のような信念があったのでしょう。
そして左目がみえない事をもろともせず、1962年に第13代日本フライ級チャンピオンになります。
左目が見えないというボクシングにとっては致命的なハンデをもろともせずチャンピオンになり凄いです!
また、どれだけ打たれても決してダウンはせず相手に「効いてない効いてない」と挑発的な言葉を相手に発していたそうです。
相手からしたら恐怖すら感じるでしょうね(怖)
しかし、その無茶なファイトスタイルは長くは続かず、ダメージの蓄積からパンチドランカーの症状が出てしまい、1964年に引退を余儀なくされてしまいます。
引退後はコメディアン兼俳優として活躍
プロボクサーを引退しその後はコメディアンの由利徹さんに弟子入りし、まずは役者としてデビューしました。
実はたこ八郎さんはボクサー時代にすでに由利徹さんに弟子入りを志願していました。
しかし由利徹さんは弟子を取らない主義で「チャンピオンになったら弟子入りを認めるよ」と冗談半分で言ったそうです。
しかしたこ八郎さんは本当にチャンピオンになってしまいます。
弟子入りの為にチャンピオンになるなんて話が逆の気もしますがw
でもそこまでしたら弟子入りを認めるしかありませんよね(><)
その際に個性的なたこ八郎という芸名になったそうですが、その由来は自宅近くにあった行きつけの居酒屋「たこきゅう」から取られました。
芸能会にデビューしてすぐの頃は、右耳がかけた風貌やその独特な出で立ちなどから、世間の人からは少し怖い人という印象がありました。
しかし「たっこでーす」という決まり文句と、常に酔ったようなコミカルな雰囲気が徐々に浸透し、お茶の間の人気者になっていきます。
そして俳優としても映画に出演し演技の才能も発揮。山田洋次監督の黄色いハンカチで高倉健さんと共演したり、松田優作さん主演のドラマ「探偵物語」に出演するなど、昭和の大スターともたくさん共演しています。
常に酔ったような雰囲気も計算された演技だったとも言われており、芸能人としても才能を開花させていきます。
プロボクサー、コメディアン、俳優と全く違うジャンルの才能をいくつも持っていて羨ましいです!
右耳がないのは犬に噛みちぎられたから?
たこ八郎さんの顔を良く見てみると右耳の一部がかけているのがわかると思います。
小さい頃に犬に噛みちぎられたという噂がありますが、実際はどうなのでしょうか?
これについてはビートたけしさんの番組で、友人とじゃれあって噛みつき合いしている際に失ったといっています。
犬ではなく人間に噛みちぎられてたなんて衝撃です!
すぐに病院に行って縫ってもらったそうですが、後に消毒をサボっていたら取れてしまったそうです。
耳が取れるって想像できないですw常に想像の上をいく破天荒な人です!
突然の訃報!たこ八郎の死因は溺死なのか?
プロボクサーを引退後、芸人・俳優として活躍したたこ八郎さんですが、1985年4月に44歳の若さで突然この世を去ることになりました。
当時人気絶頂だったたこ八郎さんの死は多くの人に衝撃を与えました。
その突然の死の原因はなんだったのでしょうか?
たこ八郎さんは海水浴中に亡くなってしまいましたが、その原因は溺死ではなく心臓麻痺でした。
どうも海水浴の日には朝までゴールデン街の行きつけの店で飲みあかし、しかも車の中で飲み続け、海水浴場についてからも海の家で焼酎を飲んでいたとか…
監視員の方に「絶対に泳がないように」と言われていたようなんですが、酔っぱらって海に入ってしまったたこ八郎さん。
100メートルほど泳いで海岸まで戻ろうとした残り20メートルほどの地点で異変が…心臓麻痺がおこってしまったようなんです。
享年、44歳という若さでの別れでした。
たこ八郎さんの死は、当時レギュラー出演していた「笑っていいとも!」の放送中にタモリさんから伝えられて日本中に衝撃が走ります。
生放送でレギュラー出演していた仲間の死を伝えるのはとても辛かったでしょね。。。
亡くなる直前の最後の写真をご紹介
タコさんは亡くなる前に「久しぶりに真鶴の海に行ってきます」と楽しそうに話していたそうですが、その亡くなる直前の写真を週刊誌に撮られています。
これが生前の最後の姿でした。
コメディアンの時も酔っぱらったキャラで活動してましたが、プライベートでもお酒に関してはブレーキがきかなかったようです。
最後に泳いだ海は生前たこ八郎さんが青春時代に何度も訪れた場所でした。
たこ八郎の葬儀に参列した大物芸能人
数々のバラエティや映画に出演していたたこ八郎さんの葬儀には多くの著名人が参加しました。
そこで葬儀委員長を務めたのは赤塚不二夫さんでした。
二人は由利徹さんに弟子入りした頃からの付き合いで、赤塚さんを中心にした赤塚会で、芸人や歌手、俳優など個性的なメンバーが集まって自分たちの芸を披露していたそうです。
たこ八郎さんは、生前に自分が死んだら赤塚さんに葬儀委員長をしてほしいといって言っていたそうで、それが現実のものとなってしまいました。
赤塚さんは出棺の際に、たこ八郎さんの額を叩いて、「この野郎、逝きやがったな。」と泣きながら冗談交じりに最後のお別れをしました。
笑っていいとも!で最初にたこ八郎さんの訃報を伝えたタモリさんも参列し、涙を流す場面もありましたが、「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と冗談交じりのコメントを残しています。
芸人仲間からは、最後は明るく見送ってあげようという気持ちがあったんでしょうね!
他にも飲み仲間だった落語家の立川談志さんや、テレビ番組で共演していたビートたけしさんも参列しています。
そうそうたる顔ぶれですね!最後はたこ八郎さんが大好きだった三本締めで葬儀が締められました。
たこ八郎さんが色んな方から愛されていたことが伝わってきますね。
たこ八郎とあき竹城は付き合っていたの?
たこ八郎さんとあき竹城さんはとても仲が良く、困った時には支え合う親友のような関係でした。
あまりに仲が良かったために、マスコミには「たこ八郎の恋人」として付き合っているんじゃないかと噂にされたこともありました。
実際にはそう言った男女の関係はなく、とても仲のいい友人のようです。
過去のエピソードを調べてみると、あき竹城さんの布団におねしょをしたり、食事をとらず酒ばかり飲んだりいった行動を繰り返すたこ八郎を心配したりと、まるで実の親子のような関係だったみたいですね(´・ω・)
実はたこ八郎さんが亡くなる直前に、あき竹城さんはサイパン旅行に誘われていたそうです。
もしその旅行に一緒に行っていたら、たこ八郎さんは死ななかったんじゃないか?ととても後悔しているそうです。
そのためたこ八郎さんが亡くなってからも墓参りに中々行くことが出来ず、ようやく最近になっていけた時「生まれ変わったらまた一緒にサイパンに行こうね」とお墓の前で号泣したとか。
自分の大切な人を死なせずに済んだかもしれないと思うと胸が張り裂けそうです。
たこ八郎とそっくり?いか八朗との関係
たこ八郎さんとそっくりな芸名でいか八朗さんという方がいらっしゃいます。
たこ八郎さんとの血縁関係などはあるのでしょうか?
いか八朗さんは22歳の頃に日本マーキューリーレコードに作曲家として入社。その後に俳優に転身し、30代の半ばごろからコントや漫談をメインに活動します。
当時は本名の近藤覚悟さんとして活動していました。
代表的な作品に「テルマエロマエ」があります。銭湯の老人役で出演していましたが、ピッタリのはまり役でかわいいおじいちゃんとしして話題になりましたね。
芸名をいか八朗からたこ八郎に変えたのは容姿がたこ八郎さんに似ているからだそうです。
当時のマネージャーからもたこ八郎さんに似ていると言われた為、たこ八郎さんのモノマネをはじめました。
髪型はモノマネのために似せているところがありますが、骨格や顔のパーツなどは確かに似ていますね!コミカルな芸風も二人が似ていると言われていた要因だと思います。
また、モノマネを続けていたら、しばらくしてたこ八郎さんが怒っているという噂がたち、挨拶に行ったら快く「いいよ」と許してくれたと語っています。
血縁関係はなかったですが、お互いに認識があり同じ芸能人として認めあった仲だったんですね!
明日のジョーはたこ八郎がモデルです
日本フライ級チャンピオンにもなったたこ八郎さんですが、実はあの有名な漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈のモデルになったと言われています!
たこ八郎さんが引退して4年後に連載が始まっていて時期的にもぴったりですね!
ノーガードで相手に打たせて疲れたところにラッシュをかけるファイトスタイルは、まさに矢吹丈のファイトスタイルにそっくりです!
作者の方が明言した訳ではありませんが、その可能性は十分にありそうです。
矢吹丈のモデルにもなったたこ八郎さんですが、そもそもプロボクサーになるため視力検査がある為、左目が見えないたこ八郎さんはプロテストを受けること自体出来ません。
そこで左目が見えないたこ八郎さんは妙案を思いつきます。
なんと視力表を丸暗記して左目も見えてるようにとぼけきったそうです!
左目が見えない事実を隠しながら視力テストを受けてチャンピオンにまで上りつめるなん、それこそ漫画の世界ですよね。
たこ八郎は現在「たこ八地蔵」になっていた!
たこ八郎さんが沢山の人に愛されていた証が東京都台東区に今でも残っています。
それがたこ八郎地蔵です。
たこ八郎さんの特徴的な髪形が再現されたお地蔵さんは、胴体には自筆の「迷惑かけてありがとう。たこ八郎」と座右の銘が彫られています。
後ろにはボクシンググローブの石像も建てられており、発起人として師匠の由利徹さんや赤塚不二夫さん、山本晋也さん、外波山文明などの名前が刻まれています。
まるで小説の人物のような破天荒な伝説も多いたこ八郎さん。しかし、それ以上に義理人情に厚く周りの方を大切にしてきたんでしょうね。
その結果、お地蔵さんとして建立されたのもたこ八郎さんが大勢の方に愛されていた証拠だと思います。
まさに伝説の人物にふさわしい人物だったんですね!
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