昭和の音楽シーンを語る上で、絶対に外せない天才シンガー「尾崎豊」。
26年という短い人生を駆け抜けたスターの死因は未だに謎が多く、解明されていません。
今回は、そんなカリスマ”尾崎豊”の本当の死因や、なぜ殺人事件にならなかったのかについて、詳しく迫ってみたいと思います。
尾崎豊の傷だらけの遺体の写真を公開!
1992年4月に亡くなってから、7年の月日を経て公開された事件当日の尾崎さんの姿↓です。
あまりに衝撃的な画像なので、気になる方はコチラをクリックしてご覧ください。
まるで集団暴行にでもあったような姿をしていますし、特に右目が酷いですよね。
そんな尾崎さんが亡くなった当日の時系列はこのようです。
- 妻の繁美さんと後楽園近くのパーティに参加。午後9時30分頃パーティが終了したので、喫茶店に入り旧友と再会。繁美さんと別れ旧友と芝浦のバーに行く。
- バーで酔っ払い店員に暴行し、午前1時半頃バーを出てタクシーに乗り込むも、タクシーの運転手にも絡んでしまい、午前2時40分頃運転手は千住橋の警察署にかけ込む。
- 尾崎豊は運転手に謝罪し、料金を支払い警察署を出る。ここから1時間程足取りは不明。
- 午前5時頃尾崎の自宅マンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人が発見し通報
- 診察した医師が「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る。
- 10時ごろになって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が119番通報。
- 搬送先の日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡。死因は肺に水が溜まる肺水腫。
当時の警察は、状況証拠や司法解剖の結果から「事件性なし」と判断しています。
また、覚せい剤を飲んでいたことはこの時点では明かされていませんでした。
ただ、発見された際「全裸」だったことや「傷だらけ」だったことから、他殺だったのでは?という噂がありました。
1994年に司法解剖時に尾崎の体内から覚せい剤が発見されていたことと、その「死体検案書」が流出したことにより、死因に様々な憶測を呼びました。
そこで10万人近くのファンが「再捜査嘆願書」を集め提出、警察に受理されましたが再捜査はされませんでした。
さらに7年後に「フライデー」が蘇生措置を施しているまさにその時の写真を掲載し、目の周りにあざがあったことや、全身が傷だらけだったことが改めて浮き彫りになり、その死因の謎がさらに深まりました。
ではなぜ、当時の警察は覚せい剤による死亡と判断したのでしょうか?
【他殺説】尾崎豊の死因の真相!殺害されたって本当なの?
当初は事件性がないと判断されていましたが、全身にすり傷があり、右目の上にコブもあることから司法解剖に切り替えられたようでう。
事件性が全くなければ司法解剖は行われませんので、警察も他殺を疑っていたことになります。
しかし解剖の結果、他殺を疑う要因が認められなかった為、死因は肺水腫と発表されます。
検死を担当した支倉逸人さんによると、尾崎豊さんの死因は、大量の覚醒剤服用による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫ということ…
メタンフェタミンは覚せい剤の一種です。要するに急性覚せい剤中毒です。
肺水腫は肺に水が溜まり呼吸ができなくなる病気ですが、覚せい剤の過剰摂取により発症した例はあるそうです。
覚せい剤を常習していた結果の中毒ではなく、急に大量に服用したため中毒になってしまった…
覚せい剤は、飲むと非常に苦いらしく水で薄めても飲めないようで、致死量に至るまで飲ませるのが困難だから他殺の疑いが少ないということです。
しかし、発見された当時の尾崎さんには全身にすり傷があり右目の上にコブもありました。これらはどうやってついたのでしょうか?
実は、警察が事件を調査した際「自分で民家の庭先のブロック塀に顔をたたきつけていた」という目撃証言があったものの、誰かと争っていたという目撃証言は無かった為、暴行を受けたわけではないことが明らかにされています。
覚せい剤中毒の症状として、心臓の鼓動が上がり興奮状態となったり「体中に虫が這いずり回っているような感覚」がすると言われています。
体中のすり傷は興奮して裸になり、のたうち回ってできたものと判断されました。
尾崎豊さんが死亡当時全身傷だらけということもこれで説明がつきますね…
では、なぜ覚せい剤のことは伏せられたのでしょうか?
また、覚せい剤を飲んでいたのに捜査がされなかったのはなぜでしょうか?
調べてみましたが、覚せい剤の摂取による死亡の場合、事件性がなければその後継続して捜査されることはほとんどないそうです。
理由としては、
- 状況証拠だけでの立件が難しく被疑者が死亡しており、自白ができない。
- 遺族が精神的に傷ついた状態であり、そこに鞭を打ってしまうような捜査への協力は、ほとんど得ることができない。
- 被疑者死亡のままでは裁判にもならない。
難しい捜査である上に、被疑者が死亡している事件に時間はかけられないということです。
また、薬物死についても心不全などの無難な死因が発表され、具体的な薬物の名前は発表されないようです。
これは当時の新聞の記事ですが、事件性がない限り捜査しないので、発表した場合捜査を続行しろと周囲から追及されるからかもしれませんね。
では尾崎さんは覚せい剤に嵌っていたのでしょうか?
尾崎さんは、1987年12月に覚せい剤取締法違反で逮捕されています。
警察に通報したのは実の父の健一さんでした。
翌年には裁判が終わり懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決がでました。
画像は、釈放された当時の尾崎さんの姿…奥様と結婚されたのも釈放後すぐのことです。
執行猶予がついたことから、すぐに音楽活動を再開しています。
彼は、また家族を裏切っていたのでしょうか?
1992年の彼を取り巻く環境はとても激しいものでした。
事務所から独立し、自身を社長として会社を設立。会社業務のすべてを自分でこなし、ミュージシャンとして作曲活動やレコーディングまで行っていました。
睡眠時間を削り、ほとんど食事をとらず、浴びるようにお酒を飲んでいたようです。
まともな精神状態ではなかったかもしれません。
薬物中毒者はすぐに分かると言われますが、死後の周囲の証言では「薬物の症状はなかった」とも言われています。
しかし実際には薬物を所持していた…おかしいですよね?
警察が事件性がないと発表しているのに謎だらけです。
世間でも憶測が飛び、他殺説がまことしやかにささやかれますが、その理由も分かります。
そんな噂を検証していきたいと思います。
嫁・尾崎繁美に殺された説
尾崎豊さんには、奥さんの繁美さんと一人息子の裕哉君がいます。
裕哉君は歌手としてデビューしており、お父さんの歌のカバーも歌っています。
1990年、尾崎さんは、アイドルだった斉藤由貴さんとの不倫旅行をフライデーに報道されています。
その後二人は破局し3人家族での再出発を図っていたはすですが、別の噂もありました。
その噂というのが、二人は復縁しており、それに気付いた尾崎繁美夫人が不倫の証拠を押さえようとドアをバンバン殴りに来たというものです。
尾崎さんの父親の健一さんが「尾崎と斎藤さんを息子の為に別れさせたい」と繁美さんの実家を訪ね、その数日後に尾崎本人が繁美さんに離婚を切り出したという話もあります。
離婚調停をしていたという話もあるので、どれが真実かはわかりません。
ですが、そのような時に尾崎さんが殺されたような死に方をした為、繁美さんはマスコミに疑われました。
死亡から2年後の1994年に、テレビ朝日とジャーナリストによって「妻と知人が共謀して覚せい剤を飲ませて殺害した」という内容を検証する番組が制作され、記事にも出てしまいます。
繁美さんは事実無根だと番組と書かれた記事に対して訴訟を起こし、番組を差し止めにしますが、それから8年にも及ぶ戦いが始まりました。
尾崎さんが最初に病院に運ばれた後に、なぜか自宅に帰っていることもあり、死にかけている夫を病院から出したのではないかと疑惑の目で見られていました。
このことは裁判の中で、病院側の証言として尾崎さん本人が家に帰ることを望んで暴れていたようだったので、潔白が証明されています。
繁美さんは一審・二審・最高裁とすべてで勝訴し、損害賠償を認めさせ、判決理由の中でも真実性に乏しいと言われており、疑いを晴らしました。
不倫された妻が夫を殺すという、サスペンスものの展開ではなかったということです。
創価学会の勢力とヤクザに殺された説
生前の尾崎さん、妻の繁美さんは創価学会の会員でした。
尾崎さんの父の健一さん、兄の康さんも会員でしたが、1991年11月に創価学会が日蓮生宗から破門されたのと同時に脱会しています。
尾崎さんも2人にならって脱会するのですが、妻の繁美さんだけが残ることに…
創価学会は裏切られた信者にとんでもない嫌がらせをするという噂があります。
発見されたときの尾崎さんは傷だらけでした。
襲われたのではないかという話なのですが、事件性がないと判断されており噂にすぎないようです。
あの日、酒場の後ふらふらになった尾崎と一緒に店を後にした。
その時尾崎は本当に意識が無いくらい錯乱状態だった。それこそ酒かシャブの影響なのか踊り狂っていたのさ。
そんな尾崎を人目につかない場所に誘導し、その後サンドバックのようにボッコボコに殴り倒したのさ。
立ち上がれない尾崎を無理矢理起こして何度も、何度もこの拳で殴ったよ。
俺らが殴り倒した後、尾崎は虫の息になりながら『帰りたい…帰りたい』って何度も呟いていたのを今でも覚えている。
引用元:選ばれない庶民のブログ
雑誌の記事にこんな暴力団関係者のインタビューが掲載されたりもしましたが、捜査された形跡がないので信ぴょう性は乏しいです。
アウトデラックスに出演!尾崎豊に取りつかれた少年・慶くん
マツコ・デラックスさんの番組にそう発言した人が出ていました!
名前は「慶くん」で塙兄弟の「従兄弟」だそうです。
いつごろからか、「自分には尾崎豊が降りてきている」と思うようになったそう。
番組の中で「慶くん」は不思議な体験を語ります。
偶然会った尾崎さんの妻の繁美さんに慶くんが連絡先を聞いたのですが、「どうせ、連絡先きいてもアデランスとかの電話番号教えるんでしょ?」と思ったらしく、そのまま思った通りに伝えたようなんです。
そうすると尾崎繁美さんが、「やだ~初めて旦那と出会った時に電話番号きかれて、私嫌だったからアデランスの番号教えたの憶えてる?」と言ったとか…
要するに、尾崎豊さんが当時繁美さんに連絡先を聞いたのと全く同じことを慶くんがやったということらしいですね。
なんとなくうさんくさいのですが(笑)
また話が前後しますが、慶くんが初めて尾崎繁美さんに会った時、思わず「しーちゃん!」って言ってしまったようなんです。
このことに対して繁美さんは、「やだ~尾崎くんと私、しーちゃん・ゆうちゃんの仲だったの」と回答したとか…
夫婦間でしか使わない二人だけの呼び方を、これも「勘」で言ったそうです。
その他にもいくつか共通点があったりするわけですが、そんな「慶くん」が尾崎さんの最後の様子を語っているんです。
酔っ払ってタクシーを降りた時に目の前に壁があって、自暴自棄っていうんですか「ああ俺やっちゃった~」って。お父さんとか家族の顔が浮かぶんですよ。『また酒でやられやがって』っていう。
ああどうしようって思って、頭ガンガンガンガンぶつけて、たぶん脳梗塞だと思う。脳挫傷か?
息苦しくなっちゃって、外傷とか関係なく、なんか呼吸困難になって。そしたら1枚1枚ぬぎたくなるっていうの?裸になっても暑い。そう暑いんだよね!
その後、病院から自宅に帰り再び病院に運ばれた尾崎豊さんですが、苦しんでいたためか死ぬ間際に繁美さんの頭を叩いてしまったみたいなんです。
そのことに対して「あーごめん」と言ったのが最後の言葉だったので、
本当は「ありがとう」って言いたかったのになんで「ごめん」って言っちゃたんだろう。
と尾崎豊さんは今思っているということみたいですね。
ウソっぽかったり、出ていた番組が「アウトデラックス」ですから信ぴょう性はあんまりですが、非常に興味深いですね。
尾崎豊の遺書が公開「ずっと死にたいと思っていました」
尾崎さんの死亡した民家は「尾崎ハウス」と呼ばれ、ファンたちの聖地になっていました。
2011年に老朽化から解体されましたが、時を同じくして尾崎さんの遺書が発表されています。
2011年12月に発売された「文藝春秋」に【尾崎豊の「遺書」】というタイトルで記事が掲載されました。
その記事で明かされていたのは、2通の尾崎の手による遺書の全文でした。
うち1通には、尾崎の血判が押されており「血染めの遺書」と紹介されています。
遺書は、尾崎が作ったまるで歌詞のような詩的な文章でつづられています。
死については「生とは死を知り、生を葬ることである」から始まり「さよなら 私は夢見ます」と締められているとのこと。
先立つ不幸をお許し下さい。先日からずっと死にたいと思っていました。死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。(中略)さようなら私は夢見ます。
引用元:日刊スポーツ
実は尾崎豊さんが亡くなった当時、息子の裕哉君は3歳でした。
遺書の中では「君は間違いなく天使なのですよ」と息子に対する愛情が溢れています。
私はただあなたを愛する名の神でありつづける。皆の言うことをよく聞いて共に幸せになって下さい。
引用元:日刊スポーツ
遺書を預かっていたジャーナリストは、その長男が成人するまで公開しないと約束していたようです。
そして、記事の中で尾崎さんが傷だらけになって倒れていたことを「自殺」だと結論づけています。
尾崎さんは自分の死期を悟っていた。
荒れた生活の中で弱り切ってしまった胃が、覚せい剤の吸収を妨げ残っていたことこそがその証明だと言っています。
もう自分に残された時間は少ないと悲観して自殺したということでしょうか?
父親の健一さんはこの遺書に懐疑的な発言をしています。
「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊かじゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます。」
そう、家族でも真相は分かっていないのです。
その健一さんも2018年11月にお亡くなりになられています。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
まとめ
尾崎豊は25年以上の歳月が流れた今でもファンに慕われています。
その楽曲は多くの有名ミュージシャンにカバーされ、新たなファンを増やし続けています。
尾崎さんはどんな人生を送ったのでしょうか?
尾崎豊は代表される「15の夜」の青年とは違い、中学までは生徒会にも入るまじめな少年だったようです。
しかし高校に入学後は、飲酒・喫煙・乱闘と問題を起こし自主退学しています。
学校を辞めてデビューしましたが、事務所やレコード会社があまりプロモーションを行わなかった為、伸び悩みます。
口コミで売れ始め、「10代のカリスマ」と人気絶頂になるも、突然曲が書けなくなり無期限活動休止を宣言し渡米してしまいます。
渡米は事務所が自前でレコード会社を作る時間を稼いでいたという噂もあります。
戻ってきて、新しいレコード会社に入ったものの親しいスタッフと離れた尾崎は、何度もアルバムの制作を中断されます。
また、ツアーを始めるも体調不良で倒れ中断してしまいます。
この頃、アメリカで覚えたのであろう覚せい剤で逮捕されています。
復帰後も満足のいく活動ができませんでしたが、1990年にレコード会社を古巣に移し完全復活を遂げます。
それでも事務所やマスコミへの猜疑心が収まらず事務所を離れ独立します。
そんな多忙の中、1991年年末に実の母親が急死します。
尾崎さんの死は1992年4月のことでした。
ライブでの圧倒的な存在感から華やかなスター街道を歩いたように思えますが、尾崎さんの道はいばらの道でした。
デビューして9年で幕を閉じますが、実際に音楽活動をしていたのはその半分にもなりません。
歌いたくて歌手になったのに周りに翻弄され、売れたはずなのに思うようにいかない…そんな葛藤の日々が彼の心を壊してしまったのでしょうか?
自分で覚せい剤を飲み、その幻覚で自傷したということなのでしょうか?
彼がオーディションで歌った歌は「ダンスホール」という曲でした。奇しくも最後のライブのアンコールで最後に歌った歌もこの曲でした。
この曲のモチーフは実在する殺人事件だと言われています。
当時14歳だった少女が、歌舞伎町のディスコを梯子するなか、殺害されてしまいます。
当時は大きなニュースになりましたが、犯人は捕まらず時効を迎えています。
今でこそなんで14歳の少女がディスコに?ですが、当時はありえる状況でした。
尾崎はその少女を救いたかったのだと思います…そして、救えなかった世の中に憤りを感じていたんだと思います。
尾崎自身は死にたかったのか?救われたかったのか?今となってはそれを知るすべはありません。
孤独なシンガーの曲を聴いてその想いを偲ぶだけです。
さて、そんな尾崎豊さんが心に決めた女性の尾崎繁美さん。
尾崎豊さんの死後に様々なバッシングを受けながらも、2024年現在は社長として尾崎豊さんの物品や著作物に関する管理や運営を行っているみたいです。
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