中森明菜の昔は可愛いけど若い頃の貧乏生活や荒んだ家庭が酷すぎる件!

中森明菜さんは1982年にアイドル歌手としてデビューして、2022年でデビュー40周年を迎えます。

ですが、2018年以降はほとんど音信不通状態で動向が心配されていました。

そんな中、公式のTwitterが8月30日に開設され、その中で再始動に向けての告知が行われました。

今回の記事では中森明菜さんの昔について(特に生い立ちや家族関係を中心)紹介します。

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病弱で貧乏生活を送っていた子供時代の中森明菜

中森明菜さんは昭和40年7月13日生まれで、2022年で満57歳になります。

出身は東京都大田区で6人兄弟(2男4女)の5番目として生まれています。

兄弟6人の名前には父の名前からとった「明」の字が含む名前が付けられており、中森明菜さんにもしっかりと「明」の漢字が使われています。

両親の名前も判明しており、父親の名前は明男さん、母親の名前は千恵子さんです。

芸名っぽい名前に感じるかと思いますが、本名で活動されています。

生家は大田区で精肉店を営んでいた様ですが、住まいについてはその後、清瀬市に移り住んでいます。

子供時代の中森明菜さんは病弱だったらしく、すぐに熱を出して寝込むような事が度々あったそうです。

その為に、家族での外出予定が度々取りやめになる事もあった様です。

そんな明菜さんに対し、母親の千恵子さんはお酒を飲んで酔うたびに「明菜さえいなければ・・・」と泣いて愚痴っていたそうです。

子供にはどうする事も出来ない中での、この母親のセリフはショックだったでしょうね・・・。

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父親は不倫しており家庭も荒んでいた

中森明菜さんの家庭は前述した様に6人兄弟と両親の8人家族でした。

父親が精肉店を経営していましたが、暮らしは裕福でなくかなり貧しかったそうです。

ですが、そんな中でも4歳から14歳まではバレエ教室に通っていたそうです。

またお出かけする時も姉妹お揃いの洋服を着せてもらったりして、着飾っていたそうですが、普段の生活では姉妹のお古ばかりを着ていたそうです。

食生活も切り詰められていて、キャベツ料理ばかり食べていたと言われています。

また夫婦の中も決して円満だった訳ではなく、父親が外に女性を作っていたらしく、夫婦げんかも絶えなかったそうです。

母親の千恵子さんは何時でも出ていけるように荷物がまとめられていたそうです。

また中森明菜さんは中学校まで朝ごはんを食べた事が無かったそうで、学校の給食室に当日の献立の見本がおかれているものをつまみ食いしてお腹の足しにしていたそうです。

習い事やお出かけに見栄を張ったりする為に、普段の生活は苦しく夫婦関係も険悪で家庭も荒んでいた様です。

その為、当時の小学校の担任の先生は母親から、家庭訪問に来なくていいと言われた事があったそうです。

歌手を目指したのは母親の夢をかなえる為

苦しい家庭環境の中で育った中森明菜さんが後に昭和を代表するアイドル歌手として、現在まで語り継がれる存在になっていますが、意外にも歌手になったのは自分の意志ではありませんでした。

結婚前の母親の千恵子さんが歌手を目指して上京した過去があったそうです。

千恵子さんの夢はかないませんでしたが、4人も居る娘の誰かが意思を継いで歌手になってくれるだろうという淡い期待を持っていた様です。

前述で小さい頃は病弱だった明菜さんは、それを負い目に感じていた様で、叶えられなかった母親の意思を継ぐことを考える様になったそうです。

他にも貧乏だった事で、お金を稼ぐにはタレントになるしかないという漠然とした考えもあったそうです。

本人の将来の夢は保母さんだったそうですが、その夢は諦め、母親に迷惑を掛けた負い目と、母親を喜ばせたい一心で歌手を目指す事になります。

その後、当時のオーディション番組である「スター誕生」に出場する事になります。

しかし、デビューの切符をつかみ取るまで3年を要する事になります。

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1982年の「スローモーション」で歌手デビュー

3度目のスター誕生への出場でようやく、デビューの切符を掴んだ中森明菜さん。

1982年5月1日にデビュー曲「スローモーション」でデビューします。

現在では有名な話となっていますが、この1982年(昭和57年)は数多くの歌手がデビューしており、さらにその多くが人気アイドルとなった、当たり年と言われる年になりました。

小泉今日子さん松本伊代さん早見優さん、石川秀美さん(薬丸裕英さんの奥様)、堀ちえみさん三田寛子さん、シブがき隊等、現在も芸能界で活躍されている方が数多く、この年にデビューしました。

改めて、こうやって見てみると、デビューした年齢が10代半ばが大半で、在学中にデビューするアイドルが多かった事が分かります。

ちなみにこの時代のアイドルの人達は、キャッチフレーズが付けられる事が多く、中森明菜さんにもキャッチフレーズが付けられました。

「ちょっとエッチな美新人娘」(ちょっとエッチなミルキーっこ)というキャッチフレーズでいろんな意味で勘違いされそうなキャッチフレーズが付けられていました。

注目されるワードではあったと思いますが、「エッチ」というワードだけがひときわ目を引くことになり、「明菜さんはエッチなんですか?」という質問を数多くされる事になったそうです。

当然、当時の明菜さんは苦痛だったそうです。

20代以降の中森明菜さんのイメージは痩せすぎのイメージがあるかと思いますが、デビュー当時は160センチの身長に対して、体重が58キロあったそうで、ちょっとぽっちゃりだった事が分かります。

いやぁ~、当時はかわいかったですねぇ。

筆者も小学生ながらリアルタイムで見ていましたが、デビュー当時の明菜さんは年相応って感じでとても可愛らしかったですね。

本人は清純派アイドル志望だった

上記は前述したデビュー曲のジャケット写真ですが、この頃は1980年にデビューした松田聖子さんを彷彿させるような姿だった事が分かります。

現在ではデビュー曲も広く知れ渡っていますが、当時のセールスの面では大ヒットとまでは行かなかった様です。

当時のオリコンランキングでは初登場58位で、最高位は30位でした。

もちろん合格ラインは越えていたものの、デビュー曲で当時放映されていた有名歌番組の出演は叶いませんでした。

続いて2枚目のシングルとして発売されたのが、上記の「少女A」になります。

デビュー曲とは打って変わって、歌詞の内容が大人っぽい不良の要素も入った曲となりました。

結果的にはこれが大ヒットして中森明菜さんが世間に知れ渡る事になった訳ですが、当時の中森明菜さんはこの曲が大嫌いだったそうです。

レコーディングの時も「嫌だ!絶対に唄いたくない!」と泣き叫んだそうです。

歌詞に出てくる不良少女が、自分の過去の事を書かれた内容だと勘違いした為、激しく抵抗したそうです。

もちろん、そんなはずもなく、スタッフに説得されたり、怒鳴られたりしながら制作されたそうです。

そうして出来上がったセカンドシングルですが、やはり完成後も中森明菜さんは嫌いだったらしく、レコーディング後に訪れたグアムでもご機嫌斜めだったそうです。

そして、この項の最初の画像がジャケット写真で、上記がポスター画像ですが、この不貞腐れている表情ガチで怒っていた時の顔なんだそうです(笑)。

そんな紆余曲折があり、中森明菜さん自身は大嫌いな楽曲でしたが、リリース後はデビューシングルを越える大ヒットとなり、オリコンでも最高位で5位の記録となりました。

当時の人気歌番組であった「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」等にも出演する事になり、中森明菜さんが広く世間に知れ渡る大きなキッカケの曲になりました。

デビューした頃に比べると、すこし痩せた感じがしますね。

確か夜のヒットスタジオやザ・ベストテンは21時以降に放送されていた記憶ですが、当時は18歳未満でも、出演できたようですね。(当時の中森明菜さんは17歳)

この曲のヒットで82年組アイドルの中で、中森明菜さんが頭一つ抜け出したような感じになりました。

3枚目のシングルとして発売されたのが、上記の「セカンド・ラブ」でした。

1枚目と同じくスローバラード調の曲となり、売上は中森明菜さんのシングルの中で最高となりました。

オリコン初登場時は2位でしたが、翌週には自身初となる1位になっています。

また「ザ・ベストテン」でも1982年12月16日から翌年の1983年2月3日の放送まで8週連続1位を記録しています。

当時は小学生でしたが、筆者も壮大な曲という印象がすごく強い曲でした。

結果的に中森明菜さんの最大のヒット曲になりましたが、2枚目の「少女A」路線から1曲目の曲調に戻った事で、当時の中森明菜さんは上機嫌でレコーディングを行ったそうです。

子供時代に聞いていた音楽の中には「カーペンターズ」があったそうで、こういった曲調が好きだった様ですね。

ただし、この後も「1/2の神話」「禁区」「十戒」等の不良っぽい楽曲も発売されています。

中森明菜さんは清純派の歌手が希望だった様ですが、明菜さんより先にデビューした松田聖子さん王道アイドルとして人気が確立されていた事もあり、差別化の為の方針だった様ですね。

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早い段階から自己プロデュースを行っていた

前述した様に、「少女A」のヒット以降は毎シングルがヒットし、人気歌手として活躍されていく事になります。

当時のレコードやCD売上の指標となっていたオリコンのランキングも「セカンド・ラブ」以降は3位以上に常にランクインする様になります。

アイドル歌手としてデビューしていますが、徐々にアイドル路線からは変わっていく事になります。

また時期ははっきりしませんが、早い時期から自己プロデュースを行っていたそうです。

ヘアースタイル衣装等も徐々に自身で行う様になります。

恐らく振り付けもご自身で考えていたと思われます。

7枚目のシングル「北ウイング」

8枚目のシングル「サザン・ウインド」

10枚目のシングル「飾りじゃないのよ涙は」

このシングルは井上陽水さんが楽曲提供された曲で、今までの明菜さんの楽曲とはまったく異なるテイストとなりました。

この楽曲あたりから、アイドルからシンガー、アーティストへの転機になったと言われています。

元々アイドルの中でもクールな印象だった中森明菜さんですが、アーティストへと変貌するにつれて、よりそのイメージが強くなった様な気がします。

快進撃!2年連続でレコード大賞を受賞

その後もTOPアーティストとして活躍は続き、1985年11枚目のシングル「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」レコード大賞を受賞しています。

デビューからわずか4年、20歳で受賞しています。

元々かわいかったイメージでしたが、20歳頃から一気に色気も出て、綺麗な大人の女性へと変貌していきました。

そして、最も印象的な中森明菜さんの楽曲の一つとして挙げられるのが、14枚目のシングル「DESIRE -情熱-」です。

この曲は1986年のレコード大賞で中森明菜さんが2年連続で大賞を受賞した曲になりますが、何と言っても歌唱時の衣装が特徴的でした。

ボブのウィッグ着物をアレンジした衣装ハイヒールと今までに前例のない衣装でした。

またこの曲の振り付けも独特で、それも話題になりました。

全身は上記の様な感じで、着物風なんですが、下半身はスカートの様になっているというとても言葉では説明が難しい衣装になっていました。

ちなみにこちらの画像は日向坂46の金村美玖さんが歌番組で着用した衣装です。

この様に現在も中森明菜さんを代表する衣装として知られており、コスプレ用の衣装まで販売されています。

これでまだ当時20歳だったんですから、昭和のアイドルは大人びていたなぁと感じます。

もうひとつ、中森明菜さんの特徴的な衣装が有名だった曲が、21枚目のシングル「TATTOO」です。

(1988年5月18日発売、当時の中森明菜さんは22歳)

超ミニのボディコンでの歌唱は歌のイメージに合わせて用意されたものだったそうですが、インパクトは相当でした。

自己プロデュースした中森明菜さん本人もボディコンしか合わないと思ったそうですが、自身が着る事には葛藤があった様です(笑)。

色っぽいんですが、その迫力もすごかったと記憶しています。

そして、特筆すべきはこの時の中森明菜さんのウエストの細さです。

デビュー当時は前述した様に、ぽっちゃりさんでしたが、10代後半以降は見事にスリムな体に変貌し、どちらかと言えば華奢とも言えるスタイルでした。

その体をこの曲の歌唱の為にさらに絞ったそうですから、驚異の極細とも言えるウエストとなっていました。

そんな極細ウエストにも関わらず、胸のサイズもそれなりにあったので、スタイルの良さが際立つ衣装でもありました。

19枚目のシングル「難破船」では上記の様な衣装でも歌唱していますので、楽曲毎のプロデュースが徹底されていた事が良く分かります。

昔の中森明菜は笑顔が特に可愛くて眼鏡姿も素敵

王道アイドルとして人気となった松田聖子さんと差別化する為に、クールなイメージで活動する事が多くなった中森明菜さん。

ですが、年齢的には20代前半の若い女の子なので、四六時中クールな顔だった訳ではありません。

歌唱前のインタビューや、ちょっとしたオフの時の表情は若い女の子そのものでした。

個人的には眼鏡を掛けた姿も可愛かったですね(笑)。

今でこそ、好きなアイドルや女優さんの画像はネットで検索すれば、簡単に大量に見つけられますが、当時は雑誌を買わないとこれらの画像を見る事もできませんでしたからねぇ。

改めてこうやっていろいろ見ると、やっぱりかわいかったなぁと感じますね。

あと個人的によく覚えているのが、同期デビューした小泉今日子さんと仲が良かったと記憶しています。

二人で並んでいる時は特に笑顔が多かった様な記憶があります。

また当時の歌番組でも小泉今日子さんと二人でピンクレディーの曲を歌唱した事もあります。

しかもその時の衣装が何故か、全身タイツに身を包んでの歌唱でした。

動画サイトでも見る事が可能かと思いますが、三つ編みでお下げ髪の中森明菜さんは貴重ですよ(笑)。

他にも数は少ないですが、コント番組に出演した事もありました。

特にドリフターズの番組では中森明菜さんだけに限らず、当時の現役アイドルのほとんどが生放送でコントをする事がありました。

今でもアイドルがコント番組に出る事はありますが、流石に生放送は無いですからね。

昭和のアイドルはほんとにいろいろな事やらされてたなぁと懐かしくなりました(笑)。

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まとめ

今回の記事では中森明菜さんの生い立ちや、若い時の画像を中心に紹介しました。

一部では2022年年末の紅白歌合戦にサプライズ出演するかもと噂されていますが、もし実現すれば2014年以来、8年ぶりの出演になるかも知れませんね。

現在は実質休業状態ですが、ネットや昭和時代を振り返る番組で多く取り上げられた影響で、平成、令和世代にも知られる存在になっています。

中森明菜の昔についてのまとめです。

  • 中森明菜さんは1965年7月13日、6人兄弟の5番目として誕生
  • 幼少期は病弱で熱を出して寝込むことが多かった
  • 4歳から14歳までクラシックバレエを習っていたが、生活は苦しかった
  • 母親が見栄を張る性格で、家族で出かける時も姉妹お揃いの洋服などを用意して出かけていた
  • 普段は姉妹のおさがりを着ており、食生活も切り詰められておりキャベツ料理ばかりだった
  • 両親の夫婦仲は悪く、父親が不倫しており、夫婦げんかが絶えなかった
  • 母親が若い頃に歌手を目指しており、4人の娘の誰かにその夢を受け継いでほしいと考えていた

  • 幼少期に病弱で母親に迷惑を掛けたと負い目に感じており、母親を喜ばせたい一心で歌手を志す様になった
  • 中学2年からオーディション番組の「スター誕生」に挑戦するも3回目の(3年)挑戦でデビューの切符をつかみ取った
  • デビュー当初は王道アイドル路線の曲だったが、当時既に松田聖子さんが王道アイドル路線で人気となっており、差別化する為にツッパリ系路線の曲を歌う様に方針転換している

  • 中森明菜さん自身は王道アイドルを希望していた為、ツッパリ系の楽曲は当時は嫌々歌っていた
  • 早い段階で衣装や髪型を自己プロデュースする様になる
  • セカンドシングルの「少女A」がヒットした事で、人気アイドルとしての地位が確立し、その後10年近く第一線で活躍する
  • 10枚目シングル「飾りじゃないのよ涙は」からアイドル路線からシンガー、アーティストへと転換している

今回の記事作成で改めて、中森明菜さんの若い頃の画像をいろいろと拝見しましたが、一説には若い頃の中森明菜さん今田美桜さん顔が似ているとの声もある様です。

似ている画像を並べてみると、確かに似ているものがありますね。

中森明菜さんはあくまで歌唱力のオーディション番組でデビューを勝ち取っているので、ビジュアルは2の次だったと思うのですが、やはり相当ビジュアルのレベルが高かった事がこの事から分かりますね。

再始動のアナウンスがありましたが、一部ニュースではまだまだ難問山積みだとも言われています。

2022年は40周年という節目で、復帰を願う声も特に大きいですが、焦らず、無理せずに頑張って頂ければと思います。

そんな中森明菜さんの現在の様子も要チェックです!

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