向田邦子の死因は飛行機の空中分解で丸焦げの遺体の写真が閲覧注意!

向田邦子の死因について

映画やドラマは演技する俳優さん以外にも沢山の人達によって作られていますよね。

実際には演者である俳優さんより、裏方で働いている人数の方が圧倒的な数ですよね。

そんな裏方の仕事の中に『脚本家』呼ばれる人達がいます。

今回の記事では昭和の脚本家としてその名を残す、向田邦子さんについて紹介したいと思います。

向田邦子は超一流の脚本家であり没後も影響力がある女性

今回の記事では向田邦子さんを紹介するのですが、その前に『脚本家』について少し説明をしておきたいと思います。

『脚本家』という仕事は主に映画、ドラマ、アニメ、漫画、ゲーム、舞台等の脚本を書く人達の事を指します。

一部では『シナリオライター』とも言われています。

ドラマや、映画で、台本を書く人と言えば分かりやすいでしょうか。

『脚本家』は裏方の仕事で、顔が知られる事が基本的には無い仕事ですが、作品がヒットしたり、シリーズ化される事などで注目されて、メディアに顔が出る事もあります。

さて、『脚本家』というお仕事を紹介したので、本題である向田邦子さんについて紹介します。

向田邦子さんも前述で紹介した様に、脚本家として数多くのドラマを手掛けています。

またエッセイスト、小説家としても活躍されていました。

  • 本名:向田邦子 むこうだくにこ
  • ペンネーム:向田邦子、幸田邦子
  • 生年月日:1929年11月28日
  • 出身地:東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)
  • 学歴:高松市立四番丁小学校卒業(香川県)、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国語科卒業
  • 大学卒業後に財政文化社に入社、社長秘書を務める

  • 雄鶏社に転職後は映画雑誌編集者を務め、この頃に市川三郎氏に脚本を学び、シナリオライターを目指す様になる
  • 雄鶏社を退社後は小説家、エッセイスト、脚本家として活躍し、1970年代には倉本聰、山田太一と並び、『シナリオライター御三家』と言われた
  • 主な作品:時間ですよシリーズ、寺内貫太郎一家、阿修羅のごとく
  • 第83回直木賞受賞 短篇の連作『思い出トランプ』収録の『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』
  • 1981年(昭和56年)8月22日死去 享年51歳

経歴で紹介している様に、1970年代に活躍された脚本家なので、50代以上でないとリアルに視聴した世代では無いかも知れません。

筆者も70年代生まれですが、実は向田邦子さんが脚本を書かれた作品はリアルでは見た事は1本もありません。

ですが、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』等はタイトルを知っている位有名なドラマでしたし、最近はBSで再放送されたりする機会があったので、視聴された方もいるかも知れませんね。

いわゆる昭和のホームドラマと言われるジャンルを多く執筆された脚本家でした。

ちなみにこららのドラマには樹木希林さん(当時は悠木千帆)堺正章さんの出世作になっています。

さらなる余談ですが、『寺内貫太郎一家』では樹木希林さんはおばあちゃんの役を演じられていましたが、当時はまだ31歳という若さなのに、老け役が当たり役となってしまいました。

経歴で紹介した通り、1981年に亡くなられていますが、今もなお関連書籍等が出版されたり、向田さんに関する番組が制作される事もあります。

爆笑問題の太田光さんは向田邦子さんのファンを公言されていますし、上記画像の様に、向田邦子さんに関する書籍を出されれています。

特に2021年は向田邦子さんの没後40年にあたることなどから、再注目されています。

また1982年に制定された賞で、現在も優秀な脚本作家に贈られる賞として『向田邦子賞』が存在しています。

この様に現在もTVドラマを語る上では欠かせない人物として、大きな影響力を持つ人物で有る事が良く分かるかと思います。

向田邦子の死因は飛行機の空中爆発という痛ましい事故

2021年は向田邦子さんの没後40年となると前述しましたが、亡くなられたのは病気などでは無く、不幸な事故が原因でした。

筆者は当時は小学生だったので、記憶が無いのですが、1981年(昭和56年)8月22日に取材旅行で訪れていた台湾で乗っていた飛行機が墜落する事故が発生し、亡くなられています。

旅客機が空中爆発を起こし、乗員乗客110人全員が死亡するという大事故でした。

台湾でも犠牲者の数では2番目に多い事故として記録される程の大惨事だった様です。

もちろん事故に至った経緯や原因も解明されていますので、詳細についても紹介したいと思います。

  • 正式記録名:遠東航空103便墜落事故(ファーイースタンひゃくさんびんついらくじこ)
  • 発生日時:1981年8月22日
  • 事故の概要:台湾・台北松山空港発高雄行きの遠東航空103便が、台北を午前9:54に離陸した14分後に台北の南南西約150キロメートルの苗栗県三義郷上空高度6,700メートルを巡航中に突然空中分解し、山中に墜落
  • 犠牲者:乗員6名、乗客104名(日本人乗客18名)全員死亡 当記事で紹介している向田邦子さんの他にもシルクロード写真企画の火付け人とされる志和池昭一郎さんも同乗していた

  • 事故原因:事故機は1969年に製造で使用年数は短い機体だったが、海洋に近い台湾島内を頻繁に飛行する事から与圧隔壁に塩害による腐食が著しく進行していた事で貨物室の外壁が客室与圧に耐えられなくなり破壊、空中分解に至った
  • なお事故機体は2週間前の8月5日にも客室の与圧が抜けるトラブルを起こしているが、この時は緊急着陸し、応急修理を受けた後の事故だった
  • 事故後の影響:各国の同型機の一斉点検が行われ、破壊に至った外壁は厚みのあるものに交換されたり、遠東航空では事故機と同型式を全て退役させ、別機種に変更された

ちなみに向田邦子さんは生前は海外旅行に多く出かけていましたが、本人は大の飛行機嫌いだったそうです。

1981年5月に発表したエッセイ「ヒコーキ」(『霊長類ヒト科動物図鑑』)でその事について書かれています。

この中で出かける前に身辺を片付けて出かけると『やっぱりムシが知らせたんだね』と言われそうだった事から、縁起を担いでわざと片づけないで旅行に出かける様にしていると語られていました。

しかし、そのゲン担ぎの効果も無く、その3か月後に事故で帰らぬ人となってしまいました。

向田邦子の遺体は弟の向田保雄が発見し日本に持ち帰る

さてここでは若干余計なお世話的な話を紹介します。

事故の詳細でもありましたが、向田邦子さんが乗っていた飛行機は飛行中に空中分解して墜落という悲惨な事故でした。

そんな悲惨な事故でも当然ですが、ご遺体は回収して弔わなければなりません。

そもそも向田さんのご遺体は見つかっていたのでしょうか?

見つかったとしても判別出来たのでしょうか?(損傷が激しいと予想出来る為)

海外で亡くなっても遺骨は日本へ持ち帰られて、お墓に収められたのでしょうか?

この辺りは当然ですが、既に40年が経過して当時の報道状況も分からないので気になった方も多かった様です。

事故から30年後でも上記の様にYahoo知恵袋で質問があるくらいです。

上記の回答文にもあるように、リンク先のブログではある方が書かれた本の内容が紹介されています。

それは向田邦子さんの弟である向田保雄さんが書かれたものでした。

向田さんが亡くなった3年後の1983年に出版されていますが、現在は絶版となっています。

ですがデジタル版が販売されているので、中古本を探す必要も無くなっている様です。

亡くなった姉の事を没後3年で家族に依頼する出版社というのもなかなかのものだと思いますよね・・・・。

時代と言えばそれまでかも知れませんが(;^_^A

台湾への遺体の身元確認と遺骨の引き取りには向田邦子さんの2歳年下の弟の保雄さんが一人で向かわれました。

他の家族も同行を願ったそうですが、飛行機に乗る必要があったので、万が一の事を考えて弟さんおひとりで向かったそうです。

事故の詳細でも書きましたが、事故のあった時期は真夏です。

そして、台湾の気候は亜熱帯の気候で、当時の遺体安置された場所の環境もご遺体の状態も悪かった様です。

そんなかなり厳しい状況の中でも保雄さんは向田邦子さんのご遺体を一目で見つける事が出来たそうです。

遺体を確認した後は現地で火葬されました。

わざわざ火葬の前に台湾式の慰霊儀式も行われたそうですが。(;^_^A

そして遺骨を日本へ無事に持ち帰り、先祖が眠るお墓に埋葬された様です。

エッセイの内容を紹介したブログでは上記の様な内容でしたが、もう少し調べてみると、ちょっと信じられない雑誌が出ていた事が分かりました。

上記画像は1983年4月に創刊された写真誌の『SHUTTER(シャッター)』というものです。

この画像でも分かる様に見出しに『向田邦子さん最期の姿』とあります。

現在はこの雑誌はありませんが、信じられない事ですが、見出しの様に向田邦子さんの遺体写真が掲載されていました。

筆者も探してみた所、この雑誌は過去にオークションに出されてたのですが、そこの商品紹介画像の中に、問題の遺体画像も掲載されていました。

流石にここに載せるにはいろいろと問題あるかと思いますので、気になる方はご自分で検索して下さい。

ただし、白黒画像で鮮明ではありませんが、修正も何もない画像なので、見る人は覚悟の上で見てください。

一応コチラのリンクから写真を見ることが出来ます(-_-;)

またその内削除される可能性もありそうです。

一応この遺体画像には当時の記事内容も確認できたので、そこからもう少し詳しいご遺体の状況や、確認に至った経緯が書かれていました。

向田さんの直接の死因は不明ですが、飛行機が空中分解した時点で既に亡くなっていたと思われます。

見つかったご遺体は丸焦げで、四肢は炭化して焼け落ちていたそうです。

また顔も当然ですが、焼けており判別できる状態では無かった様です。

ただし、向田邦子さんは1975年(昭和50年)に乳癌の手術で、片方の乳房を摘出していました。

この乳癌の時の手術跡があった事で、向田邦子さんのご遺体であると確認が出来たと記事には書かれていました。

雑誌に掲載されたご遺体の画像は当然、遺族に断りも無く撮られたもので、雑誌掲載も族の了承を取ったとはとても思えませんので、現在なら大炎上どころの騒ぎでは済まないでしょうね

やったもの勝ちとはいえ、時代って恐ろしい・・・・・・・・(;^_^A

遺体の画像が雑誌に掲載された事実を知る人は少ない

前述した様に、向田邦子さんのご遺体と思われる画像が雑誌に掲載されるという信じられない事が現実にあった事を紹介しました。

事実をありのまま伝えるのが報道の役目かも知れませんが、これは完全にやりすぎで駄目ですよね。

向田邦子さんが亡くなった事故についてはいろいろな媒体で紹介されていますが、ご遺体の画像が雑誌に掲載された事実はあまり広まっていない様です。

まあこんなことは拡散しない方が良いのですけどね。

一応SNSで調べてみましたが、この事に関して投稿されているのは上記の他に数件の投稿があるだけでした。

ネット記事等では掲載されていない様で、見つかりませんでした。

また向田邦子さんのご遺族がこの雑誌に対して何かアクションを起こしたのかについても不明でした。

まとめ

今回の記事では向田邦子さんについて紹介しました。

筆者も事故当時は生まれていましたが、当時は小さすぎて流石に全く知りませんでした。

今もマスコミの行き過ぎた行動は批判されたりもしますが、向田邦子さんのご遺体の画像を雑誌に掲載していた過去があった事は正直衝撃でした。

マスコミの”報道”という金科玉条で何を掲載しても構わないという怖さも感じました。

向田邦子の死因についてのまとめです。

  • 向田邦子さんは秘書や雑誌編集者を経て、脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する
  • 『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』等の数々のヒット作品を生み出す1970年代を代表する脚本家
  • 1981年(昭和56年)8月22日に台湾を取材旅行中の飛行機事故で死去
  • 2021年で没後40年になるが、未だに注目される存在である

  • 飛行機事故の原因は塩害による外壁の腐食で、飛行中に外壁から空中分解した
  • ご遺体の確認は弟の向田保雄さんが台湾へ出向き、火葬までを行って遺骨を持ち帰った
  • 当時向田邦子さんのご遺体の画像が掲載された雑誌が発売されていた
  • 向田邦子さんの亡くなった事故についてはいろいろなサイト等で紹介されているが、ご遺体画像が雑誌に掲載された事実はほとんど知られていない

現在もマスコミ報道に起因してSNSでいろいろな問題も起こっていますが、まだ現在の方がましなのではと感じる程でした。

やっぱり昭和時代のマスコミの方が、酷さは群を抜いていたんですねぇ。

改めて調べてみるとレベルが違いますよね・・・・・・。

後味の悪い記事となってしまいましたが、向田邦子さんが関わったドラマや映画は現在ではネットでも見れたりする作品もあるので、気になった方は御覧になっては如何でしょうか。

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