向田邦子さんといえば、『寺内貫太郎一家』や『阿修羅のごとく』など数々の名作を生み出した、昭和を代表する脚本家ですよね。
しかし1981年、台湾での取材旅行中に飛行機事故に巻き込まれ、51歳という若さでこの世を去りました。事故の状況や遺体がどうなったのか、今も気になっている方は多いのではないでしょうか。
当時の報道や弟・向田保雄さんの手記から、事故の詳細と遺体確認の壮絶な経緯を見ていきます。
向田邦子は超一流の脚本家であり没後も影響力がある女性
- 向田邦子さんは1981年8月22日、台湾で遠東航空103便の墜落事故により51歳で死去
- 死因は機体の塩害腐食による空中分解で、乗員乗客110名全員が犠牲になった
- 遺体は弟の向田保雄さんが単身台湾へ渡って確認。乳癌の手術痕が身元特定の決め手だった
- 事故後に遺体写真を掲載した雑誌『SHUTTER』が存在したが、現在は廃刊
| 名前 | 向田邦子(むこうだ くにこ) |
|---|---|
| 生年月日 | 1929年11月28日 |
| 没年月日 | 1981年8月22日(享年51歳) |
| 出身地 | 東京府荏原郡世田谷町若林(現・東京都世田谷区若林) |
| 学歴 | 実践女子専門学校(現・実践女子大学)国語科卒業 |
| 職業 | 脚本家・エッセイスト・小説家 |
| 代表作 | 『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』 |
| 受賞歴 | 第83回直木賞(『思い出トランプ』収録の短篇連作) |
向田邦子さんは、テレビドラマの黎明期から活躍した脚本家です。1970年代には倉本聰さん、山田太一さんと並んで「シナリオライター御三家」と称されるほどの存在でした。
向田作品に出演することは俳優にとって一種のステータスとも言えるもの。脚本家としてだけでなく、エッセイストや小説家としても才能を発揮し、1980年には短篇連作『思い出トランプ』で第83回直木賞を受賞しています。
1970年代に一世を風靡した『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』は、リアルタイム世代でなくてもタイトルを聞いたことがある方は多いはずです。BSなどで度々再放送されており、今の視聴者にも響く普遍的な面白さがありますよね。
ちなみに、樹木希林さん(当時は悠木千帆)が『寺内貫太郎一家』でおばあちゃん役を演じたとき、実はまだ31歳だったというエピソードはあまりに有名です。
向田邦子さんの影響力は没後も衰えることがありません。優れた脚本家に贈られる「向田邦子賞」は1983年に創設され、テレビドラマ界の権威ある賞として現在も続いています。
爆笑問題の太田光さんをはじめ、多くの著名人が向田邦子ファンを公言しています。2026年は没後45年にあたりますが、その作品と生き様は色褪せるどころか、新たなファンを獲得し続けているんですよね。
しかし、その才能が絶頂期にあった51歳のとき、あまりに悲劇的な事故が彼女の人生に幕を引くことになりました。
向田邦子の死因は飛行機の空中爆発という痛ましい事故
向田邦子さんが亡くなったのは、病気ではありません。取材旅行で訪れていた台湾で起きた、航空機墜落事故が原因でした。
1981年(昭和56年)8月22日、搭乗していた飛行機が上空で空中分解を起こし、乗員乗客110名全員が亡くなるという大惨事。生存者はゼロでした。
| 正式名称 | 遠東航空103便墜落事故 |
|---|---|
| 発生日時 | 1981年8月22日 |
| 路線 | 台北松山空港発・高雄行き |
| 機体 | ボーイング737-200型機(1969年製造) |
| 事故概要 | 離陸14分後、高度約6,700メートルを巡航中に突然空中分解し山中に墜落 |
| 犠牲者 | 台湾人乗員乗客88名、日本人乗客18名、アメリカ人乗客4名の計110名全員 |
| 事故原因 | 塩害による機体腐食と金属疲労により与圧隔壁が破損し空中分解 |
事故機は台湾国内の短距離路線で頻繁に運航されており、フライトサイクル(離着陸の回数)は33,313回にも達していました。使用年数に比べてかなりの酷使です。
さらに海産物の輸送にも使われていたことで、機体下部に塩害による腐食が深刻に進行していました。客室の与圧に耐えられなくなり、空中で機体が裂けて分解してしまったんですね。
しかも事故の2週間前の8月5日にも、客室の与圧が抜けるトラブルが発生して台北に引き返していました。
さらに事故当日の朝にも、馬公行きの便として離陸した直後に与圧を喪失して引き返し、応急修理を受けたばかりだったという事実があります。
立て続けに与圧トラブルが起きていたにもかかわらず、抜本的な修理をせずに飛ばし続けていた。整備不良というヒューマンエラーが招いた、防げたはずの悲劇でした。
運命の皮肉と言うべきか、向田邦子さんは生前大の飛行機嫌いとして知られていました。
事故のわずか3ヶ月前、1981年5月に発表したエッセイ「ヒコーキ」(『霊長類ヒト科動物図鑑』収録)では、「離着陸のときは平静ではいられない」と飛行機への恐怖を赤裸々に綴っています。
同エッセイでは、もし墜落して死んだ後に部屋が綺麗に片付いていると「やっぱりムシが知らせたんだね」と言われるのが嫌だから、旅行前はわざと部屋を散らかしたまま出かけるという「ゲン担ぎ」についても触れていました。
しかし、そのゲン担ぎも虚しく彼女は帰らぬ人に。しかもこの台湾旅行は、元々予定していた中国・シルクロード旅行が手違いでキャンセルとなり、急遽切り替えた行き先だったとも伝えられています。初めての台湾が、最後の旅になってしまったんですね。
空中分解という凄惨な事故状況から、ご遺体の状態もまた筆舌に尽くしがたいものだったと言われています。
向田邦子の遺体は弟の向田保雄が確認し日本に持ち帰る
高度6,700メートルでの空中分解。機体がバラバラになって墜落した状況から、遺族やファンの間には大きな不安がよぎりました。
「遺体は見つかったのか?」「損傷が激しく、本人と判別できたのか?」。事故から45年近くが経った今でも、こうした疑問を持つ方は少なくないようです。
結論から言えば、向田邦子さんのご遺体は発見され、日本へ無言の帰国を果たしています。その過酷な身元確認を行ったのが、2歳年下の弟・向田保雄さんでした。
保雄さんは後に著書『姉・向田邦子』で当時の壮絶な体験を記しています。この書籍は現在もロングセラーとして文庫版や電子書籍で読むことができます。
事故直後、保雄さんは「万が一の二次災害で全滅するのを防ぐため」に他の家族を残し、たった一人で台湾へ飛びました。事故翌日の8月23日に羽田を発ち、24日から遺体確認の作業に入っています。
事故があったのは8月の台湾。亜熱帯の真夏という気候条件の中、遺体安置所の環境は劣悪で腐敗の進行も早く、現場は凄まじい状況だったと伝えられています。
しかし、そんな極限状態の中で保雄さんは並べられた多くの遺体から、一目で姉を見つけ出したそうです。保雄さんはそのご遺体の姿を、画家ルオーの作品「悪の華」に例えて表現しました。
当時の記録によると、ご遺体は空中分解の衝撃と火災により全身が丸焦げの状態でした。四肢は炭化して失われており、顔も判別不能。指紋の採取すら困難なほど損傷が進んでいたそうです。
顔も体も判別できない状態で、なぜ保雄さんは「向田邦子だ」と確信できたのか。決め手となったのは、1975年(昭和50年)10月に行った乳癌の手術痕でした。
向田さんは右腕が上がりにくくなる後遺症と引き換えに、右乳房を切除していました。炭化したご遺体にはその手術の痕跡が残っており、これが悲しい身元確認の決定打となったのです。
ご遺体は現地で火葬され、小さくなった姿で日本へ帰国。先祖が眠るお墓に埋葬されました。
向田邦子さんの命日である8月22日は、親交のあった作家・山口瞳さんの提唱で「木槿忌(むくげき)」と呼ばれています。
なお、弟の向田保雄さんの近影や現在の画像は公式には公開されていません。ただ、保雄さんの著書『姉・向田邦子』は向田邦子さんの人生と最期を知るうえで欠かせない一冊として、今も読み継がれています。
遺体の画像が雑誌に掲載された事実を知る人は少ない
弟の保雄さんが敬意と愛情をもって姉の最期を綴った一方で、当時のマスコミによる衝撃的な行為があったことも記しておく必要があります。
1983年4月に創刊された写真誌『SHUTTER(シャッター)』が、表紙に「向田邦子さん最期の姿」という見出しを掲げ、事故現場の遺体写真を掲載していたのです。
現在は廃刊となっており入手困難ですが、当時の誌面には修正も配慮もない状態で写真が掲載されていたと言われています。遺族の許可を得ていたはずもなく、コンプライアンスが重視される現代なら大問題になっていたでしょう。
向田邦子さんの事故死については多くのメディアで語られていますが、この「遺体写真掲載」の件はほとんど知られていません。あまりにショッキングな内容のため、ファンや関係者の間でもタブー視されてきた側面があるようです。
SNSでも具体的な情報はごくわずか。ご遺族がこの出版社に対してどう対応したのか、公式な記録も残されていないのが実情です。
昭和という時代のマスコミが持っていたエネルギーと、その裏にある倫理観の欠如。現代のSNSによるプライバシー侵害とはまた別の次元の問題として、ネットの片隅でひっそりと語り継がれています。
まとめ
昭和を代表する脚本家・向田邦子さんは、才能の絶頂期に飛行機事故という悲劇に見舞われました。没後45年近くが経った今もなお、事故の詳細と遺体の状況に関心を寄せる方が多いのは、それだけ彼女の存在が大きかったことの証でしょう。
- 向田邦子さんは『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』を手掛けた昭和を代表する脚本家・エッセイスト
- 1981年(昭和56年)8月22日、台湾で遠東航空103便の墜落事故により死去(享年51歳)
- 事故原因は機体の塩害腐食と金属疲労による空中分解。整備不良が根本原因だった
- 遺体は弟の向田保雄さんが単身台湾へ渡り、乳癌の手術痕を頼りに身元を確認した
- 損傷の激しい遺体写真を掲載した雑誌が当時発売されていたが、現在は廃刊
- 2026年で没後45年を迎えるが、向田邦子賞をはじめその影響力は今も健在
現代ではSNSでの誹謗中傷やプライバシー侵害が問題になっていますが、昭和の芸能報道の過激さはまた別次元のものだったと思い知らされます。
ただ、衝撃的な最期がどれだけ語られても、向田邦子さんが遺した作品の価値は何一つ損なわれません。家族の温かさと闇を鋭く描いた向田ドラマは、動画配信サービスやCS放送で今も視聴できます。
倍速視聴が当たり前の時代だからこそ、向田脚本の会話劇はじっくり味わう価値がありますよ。



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