研ナオコの若い頃がハーフ顔の美人!昔と別人で鼻を整形した疑惑も!

研ナオコさんと言えば、コミカルなイメージが強いキャラクター♪

テレビのバラエティー番組では変な顔をしたり、面白い事を言ったり…。

志村けんさんとのコントも全力で3枚目役を演じ、視聴者を楽しませてくれました。

じつは、昔の研ナオコさんは、日本人離れした独特な魅力を持つ超絶美人だったのです!

そこで、研ナオコさんの若かりし頃の美しい画像と、昔のエピソードをまとめてみました。

この記事を読み終わる頃には、今まで抱いていた研ナオコさんのイメージが大きく変わる事でしょう。

ではでは、未知との遭遇です!一緒に参りましょう♪

研ナオコの若い頃(昔)はハーフ顔のアンニュイな超絶美人

まずは、百聞は一見に如かず!

若い頃の研ナオコさんの画像をどど~んと紹介します♪

どど~ん!

なんとも、外国の女性を思わせる顔立ち!

もう、ひとつ♪どど~ん!

おまけに♪どど~ん!

篠山紀信・撮影の画像も、どど~ん!

アンニュイな表情がたまりませんね。

※アンニュイ

退屈さ、気だるさ、物鬱さなどが交ざったような様子。

研さんの「ナオコ節」は、まさにアンニュイがギュッと詰まった、力が入り過ぎない独特な歌唱法です。

過去のルックスも歌手・研ナオコにピッタリなアンニュイぶりだったのです!

研ナオコのスッピンも美人だったのかが気になる件

さて、アンニュイ美人だった研ナオコさん、気になるのはスッピンでございます。

しかし当時の芸能界、かなりのバッチリメイクが主流。

残念ながら、若い頃のスッピン画像は見当たりませんでした…。

その変わり、2007年に自身のブログでスッピンを披露した画像を発見!

その画像がこちら⇩

あのぅ…研さん…ずいぶんボケてますが…。

偶然ですか?意図的ですか?

スッピンに話題を持ってきた私の立場がないのですが(笑)

それでは、皆様!こちらの画像で勘弁してくださいませ。

2012年公開の映画「忍道-SHINOBIDO-」に出演の際、忍者の里の老巫女・婆様役をスッピンで演じました。

スッピンで、このお肌!当時58歳ですが艶やかな美しい肌でございます。

スッピンで映画出演なんて、若い女優さんでも躊躇する中、なかなかの勇気がいりますよね。

本当にアウトな状態だったら、スッピン出演はNGだったでしょう。

と、これだけだけで終わりませんよ~!しっかりと深掘りさせて頂きます。

「美人に思えない」という人がいる事実は否めない!

この記事のタイトルにある「超絶美人だった」という言葉をふまえて、過去の研さんの画像を見ても…。

研ナオコ=美人にたどり着かない方もいらっしゃるかと…。

そこの、あなた!大丈夫です♪決しておかしくはありませんよ。

それには、こんな理由があるのです。

美人?不細工?ふたてに分かれた唯一無二の存在だった

じつは、若い頃の研ナオコさんは「美人」と「不細工」両方の意見がある不思議な存在だったのです♪

過去の画像を見ても、見た人すべてが同じ感想ではないのではないでしょうか?

そもそも、美意識には個人差がありますので、意見が分かれるのは当たり前のこと。

この美的感覚の違いは人により、時代により、永遠に無くならないものなのです。

研ナオコさんの顔立ちは、「正統派美人」というより「個性派美人」

正統派美人なら、多くの人が美人だと認識します。

しかし、その中でも好き嫌いは分かれます。

なおさら、個性派美人の研ナオコさんは、捉え方が人それぞれとなります。

デビュー直後、その個性的な顔立ちを「美人」ととるか「不細工」ととるか意見が真っ二つに分かれたと言います。

一体どちらなのか?アンケートをとっていたほど話題になったそうですよ♪

そこまで注目を浴びる研さんは、まさに唯一無二の存在なのです!

美人画の第一人者が研ナオコを「絶世の美人」と大絶賛!

アンニュイで外国人を思わせるような、強烈な個性の持ち主の研さん。

研さんの顔立ちについて、とある芸術家はこう言いました。

「あの顔を美人にとるか、不細工にとるかで、その人の美的感覚がわかる」と…。

実際、研ナオコさんの顔を美人にとった人の中には、美的感覚が繊細な芸術家がいました。

昭和の美人画の第一人者といわれる岩田専太郎は、研ナオコを「絶世の美人」と称しました。

「100年に1人出るか出ないかの不世出の美人」と大絶賛!

ちなみに、こちらが岩田専太郎さんの作品です⇩

美しい!まさに美人画です!

このような美女を描く方に絶賛されるなんて♪

1人の美人画の第一人者の言葉は、ほかの100人分の言葉よりも勝るかもしれません。

また、漫画家の赤塚不二夫は「研ナオコ」ファンクラブの会長を自ら率先して、名乗り出たくらい夢中だったそう。

繊細な美的感覚を持つ人に好まれていた研ナオコさんの顔。

美の奥深さを感じますね。

整形で鼻を弄ったと言われているがやってません(笑)

そんな研ナオコさん、なぜか整形疑惑が浮上していますΣ(゚Д゚)

特に鼻が怪しいと言われているようですが、まず絶対にやっていないです!

鼻の変化をまとめた画像↑ですが、昔から同じ鼻の形であることが分かりますよね(笑)

元々顔立ちは整っていることが分かりますし、研ナオコさん自身が公開しているメイク動画でかなり見た目を変えることが出来ています。

それに途中から面白さ路線で売れていった研ナオコさんが、わざわざ可愛くなるために整形するなんて有り得ないです。

以上のことから整形疑惑はあくまで疑惑であり、ガセ情報であると思いますね!

研ナオコ・歌好き幼少時代から高校中退までの道のり

さて、お次は研ナオコさんのデビューまでの道のりに迫ります!

高校を中退していた研さん。

「時間がもったいないから義務教育も受けたくなかった」と言うほど、デビューに向けての熱い想いがありました。

歌手!タレント!女優!研ナオコ・プロフィール

  • 本名:野口なを子(旧姓・浅田)
  • 職業:歌手・タレント・女優
  • 生年月日:1953年7月7日
  • 身長:162cm
  • 体重:51.5kg
  • 血液型:A型
  • 出身地:静岡県伊豆市(旧・静岡県田方郡天城湯ヶ島町)
  • 最終学歴:静岡県立三島南高校商業科中退

研ナオコさんの実家は兼業農家でした。

父親は長距離ドライバー、母親はわさび畑と茶畑に携わっていました。

そして、異母兄が二人います。

父親が前妻と、離婚もしくは死別をしていたようです。

二人の息子を連れて再婚した後に、研さんは誕生しました。

幼少時代から大の歌好き

研さんは、3歳の時から歌が好きで、美空ひばりさん・島倉千代子さんなどの当時流行っていた歌は全て歌えたとのこと。

4歳の時には、地元の夏祭りの素人演芸会に、飛び入り参加。

「ひばり節」を歌い、拍手喝采を受けました。

畑、田、山、川に囲まれた田舎で、のびのびと育った研さん。

幼稚園の時、村の集会所のやかんに入っていた酒を飲んで、急性アルコール中毒で入院したことがあります。

幼稚園でアルコール中毒とは衝撃的ですね!

幼稚園の頃から歌手になるという夢は、ほのかに描いていたようですが、まだまだハッキリしたものではありませんでした。

のど自慢に出まくり!小中学校時代

小学校時代は、意外にも人見知りでした。

そんな、研さんでしたが同じ歳の小林幸子さんが、小学生でデビューします。

それが、歌手になる夢を抱き始めた一番のキッカケだったと言います。

ただ、あくまでもこの頃は、歌手になる夢を抱き始めたという段階でした。

中学校時代は運動神経が万能で卓球とバレーを、掛け持ちするなど学生時代は送っていたそう。

声楽部にも所属していました。

1963年(10歳)

視聴者参加型番組「日清ちびっこのどじまん」に出場。

「星空に両手を」を歌うのですが、「子どもが歌唱するのにふさわしくない」と怒られ不合格。

1965年(12歳)

「のど自慢大会」(静岡放送)に出場すると、見事合格。

1967年(14歳)

再び出場した、「のど自慢」(静岡放送)で準優勝。

その頃から、さらに歌手になりたいと思うようになったそうです。

1969年(15歳)

初めて友達と遊びに行った東京で、日劇の「ウエスタンカーニバル」を観劇。

出演していたピーターさんが、あまりにもきれいだったため、「私もあんなスターになる」と、本気で歌手になることを決意。

高校を1年で中退し、両親の反対を押し切って上京します。

研ナオコが売れるまでの道のりは険しかった

幼い頃からの歌手になりたい想いが、成長とともに強くなっていった研さんですが…。

歌手への憧れだけでなく、家庭環境も大きく影響していました。

家族のために稼ぎたい

じつは、研ナオコさん「歌手になってすきま風が吹く家を建て直してあげたい」という気持ちが強くあったそう。

江戸時代に建てられた実家は、築100年!かやぶき屋根の歴史ある家屋でしたが…。

すきま風が入り寒いし、逆に夏は暑かったそう。

こちらが実家の画像⇩

写真・左の母親に抱かれている子が研さん。

風情があって素敵♪と思ってしまいますが、実際住み続けるには大変だったのでしょうね。

家計も貧しく、給食費と学校の会費が払えないことも…。

しかし、暗い幼少期というわけではなく、自分で木をカンナで削り机を作って遊んだりしてました。

異母兄弟と仲が良かったことも、明るい幼少期を過ごすのに良い影響を与えたようです。

そして、朝、暗いうちに起きて、一番最後に寝る母親を見て「ラクにさせたい」という想いもデビューへの意欲になりました。

そんな、家族を大切に想う研さんですが…。

歌手になって成功するという、夢が叶うまでの道のりは険しいものでした。

「東宝レコード」の第1号歌手としてデビュー

高校を1年で上京した研さんは、横浜のおじさんの家に居候をすることに。

ボイスレッスンを受けたり、音楽学院などを回るなど、夢にむかい努力の日々を送りました。

おじさんが東宝会館の電気室に務めていた縁で、設立予定だった「東宝レコード」のオーディションを受けることになります。

「悲しい酒」「雲にのりたい」などを歌い見事合格!

「東宝レコード」に入社が決定。

「東宝レコード」が設立されるまでは、歌のレッスンをしながら「日比谷スカラ座」のエレベーターガールをしていました。

1971年4月、17歳の時「東宝レコード」の第1号歌手として、「大都会のやさぐれ女」で歌手デビュー。

芸名の「研」は、当時の所属事務所「研音」からとったそうです。

期待されていない新人だった

しか~し…!

ほとんど売れず、喫茶店やキャバレーなどを中心に、日本全国をキャンペーンで回る日々だったそう…。

その間は2ヶ月間もお風呂に入れなかったり、冬の北海道でミニスカートの衣裳だったりと、それはそれは過酷な状況でした。

期待されていない新人だったと研さんは語っています。

当時は、テレビに出演するにもオーディションに合格しなければなりませんでした。

オーディションに落ちてばかりだった研さんは、テレビで顔を売るチャンスは訪れませんでした。

研さんの兄・俊明さんは、地元のレコード店でデビュー曲を買い占め、友人や知人に売って回り歩きました。

軽トラックに「大都会のやさぐれ女(デビュー曲)研ナオコ」と手書きで書いた横断幕を張りつけて、街中を宣伝して走り回ってくれたそうです。

ええ、話やなぁ~(涙)

同年10月、2枚目のシングル「屋根の上の子守唄」を発売。

こちらもほとんど売れず…。

事務所を移籍してから脚光を浴びる

その後、大きな出会いがありました。

「スパイダクション」を設立しマネージメント業務をしながらも、東宝レコード顧問でもあった、田辺昭知さんと知り合います。

※現在「スパイダクション」は「田辺エージェンシー」となり、田辺さんが代表取締役社長になっています。

そして、1年半ほど経った頃、東宝レコード」から「田辺エージェンシー」に移籍。

立て続けにシングルを発表します。

  • 1972年3月「二人で見る夢」
  • 1972年7月「京都の女の子」
  • 1972年11月「こんにちわ男の子」

なんと!「京都の女の子」が、デビュー以来初のオリコンシングルチャートランクイン

そして同年、人気ドラマ「時間ですよ」や、愛川欽也さんとの「ミノルタカメラ」のCMに出演します。

このことから、研さん自身の人気はアップしていきましたが歌手としては、低迷していきます。

「愚図」を皮切りにヒット曲が続出!

歌手を辞めようかと思っていた矢先…。

1975年9月にリリースした9枚目のシングル「愚図」が、ついに、初のオリコンチャートベストテン入りして大ヒット!

この年の「第4回FNS歌謡祭」で「最優秀歌謡音楽賞」を受賞しました。

※研さんいわく、この曲のヒットでナゼか親戚が増えたそう…芸能界のあるあるですね(笑)

そして、1976年2月「一年草」、6月「LA-LA-LA」がヒット。

「LA-LA-LA」で「第27回NHK紅白歌合戦」に初出場。

さらに、1976年10月にリリースした「あばよ」が、自身初のオリコン1位を獲得する大ヒットとなり…。

  • 「第18回日本レコード大賞歌唱賞」
  • 「日本歌謡大賞放送音楽賞」
  • 「FNS歌謡祭最優秀歌謡音楽賞」

などを受賞したうえに、紅白歌合戦にも出場するという活躍ぶり!

この当時はバッグバンドが、あのTHE ALFEEだったことも♪

まだ売れていなかったTHE ALFEE。

坂崎さんと高見沢さんは、お金がなくなると研さんの家に、食事目当てで遊びに来たそう。

ん?桜井さんは何処で食事してなのでしょうね~(笑)

そして…。

  • 1977年3月「風をくらって」
  • 1977年6月「オヽ神様」
  • 1977年9月「ふられてやるさ」
  • 1978年3月「かもめはかもめ」で第20回レコード大賞金賞を受賞
  • 1978年7月「窓ガラス」
  • 1978年10月「みにくいあひるの子」

と、ヒットをとばします。

1982年「夏をあきらめて」では…。

  • 24回日本レコード大賞金賞を受賞
  • 全日本有線放送大賞優秀スター賞を受賞
  • 日本有線大賞有線音楽賞を受賞

と数々の輝かしい賞を獲得したのです。

夢にみていた人気歌手となりました♪

笑いのセンスで脚光を浴びコメディエンヌの道も歩む

コントでも人気を博した研さん。

歌手デビューしたはずが、何故お笑いの道にも進んだのでしょうか?

これには、順風満帆でなかった歌手生活が影響していました。

デビューしたものの、なかなか思うように脚光を浴びることがなかった日々。

そんな中、1972年にゲスト出演した人気ドラマ「時間ですよ」で、大口を開けて笑う個性的なキャラクターが、お茶の間で大人気に!

レギュラーに抜擢されることになりました。

抜群のお笑いセンスが、歌より一足先に脚光を浴びることになったのでした。

歌手にこだわらず、仕事の幅をひろげた事が良い結果となったようですね♪

これを機に、研さんの面白いキャラクターを発揮する場が増えていきます。

そして、愛川欽也さんと「ミノルタカメラ」のCMに共演。

「美人しか撮らない、だから撮らない」のセリフと共に、カメラを研さんからそらすというコミカルなシーンが大好評!

その後は歌手だけでなく、バラエティ番組に多数出演。

お茶の間に笑いを届けることになります。

「カックラキン大放送」では「ナオコばぁちゃん」というキャラクターが人気になりました。

「ナオコばぁちゃん」は、いつも「おかえり」と縁側で迎えてくれ、よき話し相手だった祖母がモデルだそうです。

志村けんさんとのコントも大人気♪

こうして歌手だけでなく、コメディの道も極めていくことになったのです。

人生わからないものですね…。

まとめ

研ナオコさんの過去を調べたら、かなり魅力的な人と分かりました。

面白いイメージしかなかった人には、昔の画像やエピソードは目から鱗だったのではないでしょうか?

それでは、まとめに入ります。

  • 研ナオコの若い頃はハーフ顔の美人だった
  • デビュー当時は美人か?不細工か?意見が分かれた
  • 歌手を目指したのは憧れもあったが家族のためだった
  • ヒット曲を出したのは遅かった
  • 歌より先に演技の面白さで脚光を浴びた

研ナオコさんの、あの顔、あの歌、あの演技があったからこそ、人気者になったのでしょう。

これからも、いろいろな分野での活躍に期待したいですね♪

さて、そんな研ナオコさんと言えば7歳年下のイケメンな旦那さんと結婚しています。

気になる方はこちらの記事をご覧ください。

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