安倍晋三元首相は2022年7月の参議院選挙の期間中に銃撃されて亡くなられました。
その為、生い立ちや経歴等が改めて紹介されましたが、安倍元首相の家系を遡っていくと、明治のころから政治家を排出しています。
今回の記事ではそんな安倍晋三元首相の家系図を紹介したいと思います。
安倍晋三元首相の親世代までの家系図
冒頭でも少し触れていますが、安倍元首相の家系図は繋がりを遡っていくと明治時代までさかのぼる事が出来ます。
そうなると家系図が膨大でややこしくなるので、まずは安倍元首相の親世代までの家系図までで繋がりを紹介したいと思います。
上記画像が安倍元首相の親世代までの家系図になります。
まずは安倍元首相の両親について紹介します。
安倍元首相の両親はどちらも政治家家系の出身
安倍晋三元首相は現時点では最も長い総理就任期間を記録する政治家となりました。
実績的には完全に父親の安倍晋太郎さんを抜いた感じですが、昭和世代には父親の安倍晋太郎さんの印象が強い方も多いのではないでしょうか。
筆者もまだ子供でしたが、当時でも名前を知っている位の有名な政治家でした。
ちなみに上記の画像は父の安倍晋太郎さん、母親の洋子さん、長男の寛信さん、次男の安倍元首相のが写ったものです。
安倍晋三元首相は左側で当時2歳の時の画像です。
安倍晋三元首相の夫婦での2ショット画像はネットですぐに見つかるのですが、両親の2ショットは時代的な問題もありますが、2ショット画像は数える程しか見つかりません。
父親の安倍晋太郎さんも閣僚経験が多かった方なのは有名ですが、奥様である洋子さんは表にはあまり出ない様にしていた感じですね。
安倍家は江戸時代の大庄屋で山口県の名士
安倍家の歴史を調べてみると、山口県で江戸時代には大庄屋を務める程の地元の名家でした。
また安倍晋太郎さんの父親である安倍寛さんが明治時代になって、山口の県会議員を経て国会議員となったことが、政治家としてのスタートの様です。(安倍晋三元首相の祖父)
上記の画像は安倍晋太郎さんの父である安倍寛(あべかん)さんです。
俳優の阿部寛さんと漢字の読みが同じように見えるかも知れませんが、正しくは『あべかん』と読みます。
ただし、明治時代に最初に議員となった安倍家の人間は安倍寛さんの伯父にあたる安倍慎太郎(あべしんたろう)さんで、山口県の県会議員に明治12年に当選しています。
この方は安倍家中興の祖と呼ばれる程の人物だったそうですが32歳で亡くなっており、中央政界入りは叶わなかったそうです。
総理大臣になれなかった父:安倍晋太郎
安倍晋三元首相の父である安倍晋太郎さんも政治家を長く務められた人物です。
今では安倍晋三元首相の父親という言い方になってしまいましたが、人気も実力もあった政治家でした。
安倍晋太郎さんは 1924年4月29日に前述した安倍寛さんの長男として誕生しています。
ですが、両親は安倍晋太郎さんが生まれて80日目で離婚をしています。
東京生まれですが、戦争の影響で幼少期は山口県で過ごしています。
1949年(昭和24年)に毎日新聞に就職し、記者として活動を始めます。
昭和26年に岸家の長女:洋子さんと結婚
1950年6月に毎日新聞の政治部記者となっていた安倍晋太郎さんは岸家の長女であった洋子さんとお見合いを行っています。
翌年の1951年(昭和26年)5月に洋子さんと結婚しています。
ちなみにこの当時の岸家は父親である岸信介さんは元政治家状態で、政治家としての空白期にあたります。
まあ有名な話ですが、戦時中の東条内閣の閣僚の一人として戦後A級戦犯として投獄されており、1948年に放免となって再起を図っている時期でした。
結婚した翌年には長男の寛信さんが生まれています。
晩年には派閥TOPになり次期首相までと言われたが病気で脱落
1956年の石橋湛山内閣で義父の岸信介が外務大臣に就任したタイミングで新聞記者を退職し、政治の世界に入ります。
当時は岸信介外相の秘書官となり、岸内閣時は内閣総理大臣秘書官に就任しています。
国会議員としての出馬は1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に山口県から立候補して初当選しています。
この時に竹下登さん(DAIGOさんの祖父)や金丸信さんも初当選しています。
1974年12月に農林大臣で初入閣を果たし、その後は内閣官房長官、通商産業大臣、外務大臣等多くの閣僚を経験し、自民党の有力議員の一人となっていきます。
第3次中曽根内閣の任期満了が近づくと次期総裁候補として立候補しますが、総裁選挙に負けて竹下登さんが次期総裁となり、その後竹下内閣成立時には自民党の幹事長に就任しています。
総裁選には敗れたものの、ポスト竹下の最有力候補としての存在は変わりませんでした。
総理就任も近いと言われていましたが、1989年にすい臓がんとそれに伴う癌の転移が多数見つかり、長期入院を余儀なくされます。
当然、総理の有力候補からも外れる事になり、癌の発症がキッカケとなり91年に67歳で亡くなられています。
ちなみに義父である岸信介元首相も晩年は安倍晋太郎さんを首相に就けようと画策していたと言われています。
【政界のゴッドマザー】母親の洋子は現在も健在
安倍晋三元首相の母親である洋子さんは1928年6月14日生まれで、2022年で94歳となられますが、現在も健在で渋谷区富ヶ谷に所有するマンションに居住されていると言われています。
ちなみに同じマンションに安倍元首相夫婦も住んでいたそうです。
1945年に白百合高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)を卒業後、岸家の実家がある山口県田布施町へ疎開しています。
その後、疎開先で就職、山口銀行の田布施支店に勤務しています。
1949年に上京し、安倍晋太郎さんの項でも紹介した様に、1950年に当時は政治部の新聞記者だった安倍晋太郎さんとお見合い、翌51年に結婚となります。
安倍洋子さんについて紹介する時に避けて通れないのが父親である岸信介元首相です。
岸信介元首相を紹介しだすと、これだけで記事1本では収まらないほどの量になるので、割愛しますが、触れずに紹介するのも不可能なので、最低限の情報を紹介しておきます。
安倍洋子さんの父親の岸信介さんは一言で言えば、政治家となりますが、戦時中の東条内閣の閣僚だったことからA級戦犯として戦後投獄されています。
その後放免されて、1953年に衆議院議員に復帰し、1956年(昭和31年)の石橋内閣で外務大臣、1957年2月25日 – 1960年7月19日には第56代、57代の総理大臣に就任しています。
後に『昭和の妖怪』と言われる程の大物政治家です。
上記画像も数少ない若い頃の洋子さんが写っているもので、岸信介元首相の左側に立っている着物姿の女性が洋子さんです。
一番左端が安倍晋太郎さんで岸信介元首相が抱える二人の子供の右側が安倍晋三元首相です。
父の岸信介、夫の安倍晋太郎、息子の安倍晋三と3代に渡り陰で支えた存在で、安倍派の清和政策研究会所属議員夫人のリーダー的存在として大きな影響力を持っていたそうです。
その影響力や信奉者が現在も多い事から『政界のゴッドマザー』と称されているそうです。
実際に父:岸信介元首相の時代から息子の安倍晋三元首相の選挙運動まで指揮を執っていたのは洋子さんと言われています。
後述で詳細を紹介しますが、3男の信夫さんを岸家の養子に出す件では洋子さんの決断で決まったとまで言われています。
また書家としても知られています。
安倍晋三元首相の兄弟について
安倍晋三元首相のご両親について紹介したので、次は安倍元首相や兄弟について紹介します。
前述で紹介した家系図を確認すると、安倍晋太郎さん、安倍洋子さん夫婦の間には3人の子供が生まれています。
父親である安倍晋太郎さんの地盤を引き継いで政治家となったのは次男だった安倍晋三元首相になります。
そして3男の信夫さんは生まれてすぐに、子供の無かった洋子さんの兄夫婦の岸家に養子に出されています。
長男の安倍寛信氏は実業家人生を歩んでおり、政治とは無縁
安倍家の長男である寛信氏は1952年5月30日生まれで現在70歳になられています。
成蹊大学卒業後に三菱商事に就職、以降は実業家としての生涯を過ごされています。
現在は70歳となられていますので、既に第一線からは退かれています。
ですが、有名企業の社外取締役や監査役などに就任されています。
上記画像は株式会社フマキラーの役員人事に関するお知らせですが、社外取締役に名前が掲載されているのが確認できます。
安倍寛信氏には長男、長女が居られますが、どちらも政治とは関りが無さそうです。
安倍晋三元首相と昭恵夫人との間には子供はいない
安倍晋三元首相は1987年に当時会社員だった昭恵さんと結婚されています。
当時安倍元首相が32歳、昭恵夫人が24歳でした。
ちなみに安倍昭恵さんの家系ですが、こちらも華麗なる一族と呼べる家系で、森永製菓の創業者一族の一人です。
上記が昭恵夫人の家系図で、父親が4代目の社長で、昭恵夫人の母方の曾祖父が創業者になります。
安倍元首相は1991年に父親の安倍晋太郎さんが急死し、93年に地盤を引き継ぐ形で立候補し、当選しています。
安倍元首相は大学卒業後は神戸製鋼所に入社(1979年)しています。
3年後の1982年に当時外務大臣を務めていた父親の秘書官になっていますので、将来的には父親の地盤を引き継ぐことを考えての転職だったと思われます。
父親の病気で国会議員のデビュー時期が少し早くなったと思われますが、既定路線であった事が経歴等からも推測出来ます。
亡くなられた2022年で結婚35年目となっていましたが、二人の間には子供が居ません。
政治家の夫婦だったので、後継ぎを産む事は結婚当初から周囲からも期待されていたのは容易に想像できます。
ですが、二人の間には子供が出来る事はありませんでした。
もう想像つくかと思いますが、不妊治療を行っていた事を昭恵夫人が告白されています。
昭恵夫人が妊娠し難い体と診断された事もあったそうです。
不妊治療を行っていた時期は結婚初期らしいので、やはり周囲の声や期待に応えようとした事が伺えます。
また安倍元首相から養子縁組を提案された事もあるそうです。
ですが、その話は断っています。
結局、子供を産まない選択を夫婦で決断されて、現在に至る様です。
ちなみに前述でも紹介しましたが、長男の安倍寛信氏に息子が居ますので、安倍家の血筋が途絶える事はありません。
弟の信夫は生まれてすぐに母方の岸家に養子に出される
安倍元首相には弟が存在しておりますが、生まれてすぐに養子縁組に出されています。
安倍元首相の弟は岸信夫さんで、現在は防衛大臣として活動されており、TVやメディアに出演する機会も増えているので、知っている方も多いかと思います。
また安倍元首相の実の弟として紹介される事も多いので、近年実弟で有る事が知られる様にもなってきました。
前述でも紹介した家系図でも分かる様に、現在は母親の実家の岸家に入られています。
安倍元首相の母である安倍洋子さんの実家の岸家は、洋子さんの兄である岸信和さんが跡を継いでいます。
しかし、兄夫婦には子供が居ませんでした。
さらに岸信和さんが3歳の時に小児麻痺を患っており、政治活動が出来ない事で信夫さんが養子に迎えられた経緯があったそうです。
ちなみに岸信和さんの写真を探してみましたが、どうやら子供時代の写真以外は一切出回っていない様です。
上記の画像の子供が岸信和さんです。
左が岸信和さんの母親の岸良子さん、右が父親の岸信介さん(1923年農商務省時代)、後ろの人物が佐藤栄作元総理となります。
岸信夫さんの義父の岸信和さんは父親の岸信介さんが総理時代に秘書官の経験はあるようですが、議員経験は無かった様です。
信夫さんの養子縁組は岸家の血が途絶える事を危惧した為の措置と思われますが、信夫さんが政治家になる事は予定外だった様で、出馬時に兄の安倍晋三元首相は反対していたそうです。
今では信夫さんが養子である事は本人はもちろん、世間にも広く知られていますが、家族から自分が安倍家から養子に出された事は聞かされていなかったそうです。
大学受験の時の必要書類提出用に戸籍謄本を取り寄せた時に初めて自分が養子だという事実を知ったそうです。
誰も教えてくれなかったので、流石に一月ほどは頭が錯乱状態になったと回顧されています。
国会議員となったのは2004年で、それまでは商社マンとして世界中を飛び回っていました。
安倍元首相が亡くなられた現在では後継候補筆頭と言われていますが、脚に病気を抱えており、大臣の激務の影響で症状は悪化しているとも言われています。
その為、安倍晋三元首相の後継は岸信夫防衛省では無く、その息子である岸信千世さんに早くも目が向けられているとの噂もあります。
岸防衛省の息子の岸信千世さんについては後述で紹介しています。
旧統一教会と政治家との関係で自身の選挙の手伝いをしてもらったと発言
安倍元首相の銃撃事件で逮捕された山上容疑者は旧統一教会に母が入信した事で、家庭が崩壊したと供述しており、数十年ぶりにマスコミで旧統一教会の話題が出てくることになりました。
安倍元首相と旧統一教会の関係が取り沙汰される中で、他の政治家も旧統一教会との関りがいろいろと報道される事になります。
その中で岸信夫防衛大臣が自身の選挙活動中に旧統一教会の信者に手伝ってもらった事があると発言しました。
さらには旧統一教会が世間で霊感商法の疑いがあり、後ろ暗い団体で有る事まで認識していたと発言しています。
この発言で岸信夫防衛大臣が今後処罰の対象となるかは不明ですが、政治家と宗教団体との関りが常態化している事の一つと言える様です。
まあ政治家にとっては、票田にもなるし、ボランティア要員もお願いし易いですからね。
宗教団体からの見返りは名義貸しとか会合の参加程度で済むので、企業への便宜と違ってリスクも少ないでしょうからね。
岸信夫の長男は元フジテレビ記者
岸信夫防衛大臣には二人の息子さんがいる事が判明しています。
上記画像は長男の岸信千世さんです。
長男は上記画像の様にフジテレビで記者として活動していましたが、2020年10月で退社しています。
退職後は父親である岸防衛大臣の秘書になっていると言われており、議員となる準備が始まっている様です。
また安倍元首相夫婦には前述でも紹介した様に、子供がおらず跡取りが居ない状態なので、この岸防衛大臣の長男が安倍元首相の後継ぎとなる説も出て来ている様です。
次男については特に名前や素性は明らかになっていない様です。
安倍家と旧統一教会の関りは祖父の岸信介によるもの
安倍元首相が銃撃された事件の容疑者である山上容疑者が証言で安倍元首相と旧統一教会が関係があると言う証言が報道されたのを覚えている方も多いかと思います。
安倍元首相がどこまでの関係性であったのかは、現在も様々な報道がされている最中なので、最終的な結果は不明ですが、元々の関係の始まりは祖父の岸信介さんとの関係になるようです。
詳しく書くとこれだけで一本の記事が出来るボリュームなので、割愛しますが、祖父の尽力はかなりのものだった様です。
そういった関係から孫である安倍元首相との関係も続いていたと思われます。
ちょっと話題が変わりますが、愛知県の大村知事が教団が主催した大会に贈った祝辞が改ざんされた件で、激怒するというニュースがありました。
報道を見た人は御存知かも知れませんが、大村知事が贈った祝電は定型文で当たり障りのない内容の文章でした。
葬式等に市町村長が弔電を送るレベルと同じような感じで出された祝電では無いかと筆者は思います。
一般的な祝電の内容だったにも関わらず教団側は内容を変えて、知事が教団代表を賛辞する文章を勝手に付け足して発表していました。
教団は大村知事の指摘に事実を認めて謝罪していますが、この団体は日常茶飯事的に祝電の改ざんを行っていたのではと推測します。
安倍元首相の場合も同じように、教団の都合の良い内容に改ざんされていた可能性もあるのではと考えます。
まあ一部ではズブズブの関係とも取れる様な報道も出始めている様ですが・・・。
安倍元首相の御先祖は首相経験者や歴史的な偉人も
前述までは安倍元首相の親の世代までの家系図でしたが、もっと範囲を広げると上記画像の様な系譜となります。
前述でも少し触れましたが、安倍元首相の祖父に岸信介元首相、大叔父に佐藤栄作元首相がいます。
ちなみに岸信介元首相と佐藤栄作元首相は実の兄弟でしたが、父親(佐藤松介)の実家である岸家に信介氏が養子となった為です。
さらに麻生太郎元首相とも遠縁の関係で有る事が分かります。
また上記図で遡っていくと、麻生太郎元首相の祖父である、吉田茂元首相や松岡洋右元外相、さらに画像右上には井上馨元外相、もはや歴史の教科書や大河ドラマで見る様な人物にまで行きつくことが分かります。
また麻生太郎元首相の高祖父(祖父母の祖父)は大久保利通でもあります。
麻生家と安倍家の系譜を並べると上記の様に直接の血のつながりは無いですが遠縁関係である事が分かります。
上記の図だと皇族にまで親族がいる麻生太郎元首相の系譜が凄すぎますね(;^_^A。
安倍元首相の血を受け継ぐ人物は残念ながら、この世に誕生しませんでした。
ですが安倍家の血は兄が、母方の岸家の血は安倍元首相の実弟の岸信夫さんによって、これからも受け継がれていく事になりそうです。
まさに政治家家系の名門ですね。
明治維新時の遺恨を詫びたエピソード
最後に安倍元首相のこんなエピソードを紹介します。
2007年4月14日に当時の参院選の選挙応援で福島を訪れた時のエピソードです。
この時は首相だった安倍さんが「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない。」と発言しています。
この先輩は誰の事を指しているのかですが、明治維新の歴史に詳しい人ならピンと来るかも知れませんね。
これは新政府軍の事を指しており、旧幕府軍であった会津藩は会津戦争として新政府軍と激しい戦いを経験しています。
簡単に説明すると新政府軍の中心となったのは当時の長州藩(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)でした。
福島県は当時は会津藩で藩主である松平容保が京都守護職を兼任していた事もあり、最後まで幕府側として戦いました。
綾瀬はるかさんが主演した「八重の桜」や「白虎隊」と聞けば分かる人も多いかも知れません。
そういった歴史的因縁があり、福島県民の高齢者層には山口県(長州)憎しという風潮が長い間あったそうです。
もちろん現在も完全に消え去ってないのは言うまでもありません。
実際、戦後山口県と福島県で姉妹都市の提携計画があったそうです。
1988年頃の事だそうですが、この計画は福島県民の反対により頓挫したそうです。
そして安倍元首相は山口県(旧長州藩)出身なので、この時の応援演説でこの様な発言をしたと言われています。
どこまでの真意で発言したかは分かりませんが、前述の画像でも紹介した様に、記事でも紹介されました。
まあ選挙応援なのでリップサービスも含まれていた可能性はあるでしょうが、明治維新時の遺恨について発言したのはかなり珍しかったと記憶しています。
まあ今となってはもう真意を確かめる事は不可能になりましたが・・・・(;^_^A。
他にも安倍晋三さんの身長について気になる方はこちらをご覧ください。
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