2004年6月1日に、日本中を震撼させた事件が長崎県佐世保市で起こりました。
「佐世保小6女児同級生殺害事件」と呼ばれるこの事件。
「小6」や「同級生」というワードの次に来る言葉が「殺害」だなんて、誰が想像できたでしょうか。
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当時小学6年生の女児が同級生で友人の女児をカッターナイフで殺害するという、ショッキングかつ痛ましいこの事件は世間に衝撃を与えました。
その加害者の女児の名前は辻菜摘(つじなつみ)、もし2024年の現在も生存していれば31歳となります。
今回は、辻菜摘が現在どのような人生を送っているのかについて調査してみました。
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事件から20年が経過しましたが、辻菜摘は現在どこで何をしているのか、結婚や生い立ち、辻菜摘の家族の現在の様子までも掘り下げてみます。
辻菜摘が起こした佐世保小6女児同級生殺害事件の概要
佐世保小6女児同級生殺害事件とはどのような事件だったのか、その概要をお伝えします。
2004年6月1日、事件が起こったのは、長崎県佐世保市立大久保小学校。
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午前中の授業が終わり時刻はちょうど給食の時間帯、教室で他生徒が給食の準備を終え、これから食べ始めようというその時に惨劇は起こりました。
辻菜摘は被害者となった御手洗怜美さんを学習ルームに呼び出しています。
その後辻菜摘はカーテンを閉めて床に座らせ、自分の手で御手洗さんの目を隠し背後から首と左手を持っていたカッターナイフで切りつけ、失血死させたのです。
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御手洗怜美さんの首の傷は深さ約10㎝、長さは約10㎝にもなり、左手の甲には、骨が見えるほどの深い傷ができていたそうです。
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犯行後辻菜摘は15分ほど犯行現場の学習ルームに留まり、御手洗怜美さんが亡くなったことを見届けた後返り血を浴びた血まみれ姿のまま教室に戻って、担任教師らを学習ルームに行くよう呼び寄せたと言われています。
辻菜摘の現在の消息は不明?多数の噂や画像を検証!
辻菜摘が2024年現在どこでどう暮らしているのかは、結論からお伝えすると確かな情報はありませんでした。
事件を起こした翌日からの辻菜摘の動きは以下の通りです。
- 2004年6月2日 長崎家庭裁判所により観護措置処分を決定長崎少年鑑別所に移送
- 2004年6月8日 少年審判 61日間の鑑定留置が決定
- 2004年9月15日 向こう2年間の強制的措置をとれる保護処分を決定
- 2004年9月16日 国立きぬ川学園(栃木県)送致
- 2005年3月 国立きぬ川学園分校で小学校卒業
- 2008年3月 国立きぬ川学園内中学校卒業 児童支援施設を退所 社会復帰
検証①社会復帰後に改名し一般人として暮らしている?
検証②韓国で暮らしてる?
検証③SNSを利用してる?
辻菜摘の病気の噂の真相とは?
辻菜摘は現在多発性骨髄腫という病気を患い、闘病生活を送っているという噂もありました。
多発性骨髄腫とは「血液のがん」とも呼ばれていますが、「骨髄」の中にある「形質細胞」と呼ばれる細胞ががん化して、「骨髄腫細胞」となり増殖する病気です。
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病気が進行すると骨の痛みや骨折、腎障害、貧血、感染症など様々な症状が出てくるといわれおり、診断されてから5年の間に約40%の人が命を落とす可能性があるそうです。
辻菜摘が多発性骨髄腫を患っているという情報の出どころは2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)の書き込みからとのこと。
確証のある情報ではないため、デマではないかと疑われています。
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もし仮に辻菜摘が病気などで死亡した場合、名前は伏せていても、「当時11歳の加害者児童」という感じで報道される可能性は高いと思われます。
しかしながら、2024年6月現在も辻菜摘が死亡したというニュースは無く、2ちゃんねるでの多発性骨髄腫で闘病中という噂が流れたのが2017年だったため、5年以上経過しています。
そのため辻菜摘が多発性骨髄腫を患っているという噂については、事実無根のデマだったのではないかと考えられています。
出典:ぱくたそ
また、辻菜摘が大病を患っているという噂はもしかしたら辻菜摘の両親や関係者が拡散したのではないかという考察する人もいました。
闘病の末辻菜摘が亡くなったことにすれば、辻菜摘が現在どこで暮らしているのか好奇心で探し回る人もいなくなると考えのかもしれません。
出典:ぱくたそ
社会復帰後の辻菜摘のプライバシーの保護を考えると、それも一理あるのではないかと思えてきました。
辻菜摘の生い立ちとは?
辻菜摘は、長崎県佐世保市の山の中腹に位置する住宅地で生まれ育ちました。
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写真で見ると、佐世保市の中でもかなりの山奥であることが分かります。
辻菜摘の自宅の近くは、高い木々に囲まれており、日中でも車がライトを点けて走るほど暗い道だったそうです。
そんな辻菜摘が通っていた大久保小学校は全校生徒130人程でしたが、辻菜摘はその中でもたった3、4人しかいないバス通学生でした。
弓張岳の中腹にある集落で祖母・両親・姉の5人家族で暮らしており、父親は婿養子でした。
辻菜摘の父親はかつてギフトセンターで働いていましたが、辻菜摘が2歳頃に脳梗塞を患った後は半身不随になり、リハビリをしながら保険代理店やおしぼり配達のアルバイトをしていたそうです。
辻菜摘の母親も、それまでは専業主婦でしたが、父親が脳梗塞を患い寝たきり状態になった時からはショッピングセンターへパートに働きに出て家計を支えるなどしてきました。
忙しい両親の代わりに、主に母方の祖母が幼かった頃の辻菜摘の面倒を見ていたと言います。
小学校での評価は優等生?時に見せる二面性が怖い?
辻菜摘の小学校での評価は、真面目で遅刻もせず授業にも積極的と優秀だったようです。
また、辻菜摘は跳び箱が苦手でしたが、あきらめず何度も練習するなど粘り強さを見せる反面、他人が間違っていると思うと反論し、正そうとするところもありました。
友達とよく遊んでいる一方で、時々1人で物思いにふけることもあり、二面性があったようです。
辻菜摘自らもプロフィールで「性格は表と裏があるらしい…。」と書いていることから、普段周りの友達からも二面性があるようなニュアンスのことを直接言われていたようですね。
この辻菜摘の二面性については、事件を起こした後に辻菜摘の父親が語っていた内容からさらに色濃くなっていきました。
辻菜摘の父親は、事件から4、5日前、辻菜摘に「読んでみたら」と勧めた本があり、事件の前日には父親がその本をネットで予約したと伝え、それを聞いた辻菜摘は屈託ない笑顔を返していたそうです。
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辻菜摘が当時好んで読んでいた小説は、「ボイス」、「バトルロワイヤル」、「着信アリ」といったホラー系。
しかしながら、その本の内容はホラーや猟奇的な殺人鬼が出てくるような小説ではなく、「チソン、愛してるよ。」という交通事故でガソリンが引火して、大やけど負ってしまった若い女性が立ち直っていく姿を描いた感動モノのノンフィクションだったとのこと。
その裏では友人を殺害するためにネットで絞殺の方法や千枚通しで刺すなど粛々とネットサーフィンをしながらイメージトレーニングしていたというのだから、どちらが本当の辻菜摘の姿なのか分からなくなります。
ただ辻菜摘の父親の話はあくまで父親目線で、父親が勧めたという本も辻菜摘の好みではなく本心は読みたくないけれど、読みたいと答えれば父親が喜ぶことを知っていたために、ベストアンサーを導き出したに過ぎないのかもしれません。
辻菜摘の父親は、自身が脳梗塞で倒れた時、幼い辻菜摘に勇気づけられ、「この子がいたから立ち直れたと思っている。とてもかわいい子」と語っています。
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さらに自身の娘が小学生にして同級生を殺害してしまってからも「なぜ娘が事件を起こしたのか分からない」と疑問に思ったそうです。
それだけ、辻菜摘が自宅では「良い子」を演じてきっていたのか、また良い子を演じるしか当時の辻菜摘にとって生きる術はなかったのか様々な疑問が残ります。
辻菜摘の家族は、辻菜摘が1人でいることを好んでいる子だったという印象があるようでしたから、今思えば両親が忙しいために甘えたい時期に甘えられる環境ではなかったのではないかと思われます。
辻菜摘は幼少期に寂しさなど満たされない思いはあっても、自分の置かれた環境に順応しようとしてきたのではないでしょうか。
また、辻菜摘が小学生の時に姉は既に高校生と年は離れており、近所に同年代の遊び相手もいなかったこともおらず孤独感は強かったでしょう。
辻菜摘の自宅にはパソコンが2台あり、その1台が辻菜摘専用のものだったそうです。
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2024年現在では、小学生でも自分専用のスマートフォンやタブレット、パソコンを持っていると聞いても珍しくはないでしょう。
しかしながら、2000年代前半当時のパソコンの平均価格は15~16万円程度とかなり高額で家族用で1台パソコンがある家庭はあっても、子ども、しかも小学生に1台はかなりのレアケースと言えます。
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父親は近所に同年代の遊び相手もいない、自分たち家族も仕事に忙しくかまってあげられないため辻菜摘を不憫に思い、高額のパソコンを買い与えたのかもしれません。
しかしながら、このパソコンでインターネットが自由に使えてしまう環境が、辻菜摘のその後の人生にとって良い方向に進んだのかというと首をかしげたくなる人は多いでしょう。
ミニバスクラブを強制退部後荒れていく辻菜摘
さらに、辻菜摘は地域のミニバスケットボールクラブに入っていましたが、本人も熱心に練習していたようです。
しかしながら、両親からの反対があり、ミニバスケットボールクラブは2004年2月で母親に退部させられてしまいます。
ネットや週刊誌では、「成績を下げないことがバスケットを続けられる条件と辻菜摘の親が決め、結局成績が下がってしまったことでバスケットを辞めることになった」とありましたが、当時辻菜摘の担任だった女性教師によると辻菜摘の成績が下がったという事実は無かったそうです。
さらに、辻菜摘は退部直前にはミニバスケットボールクラブでのレギュラーにも選ばれていたこともあり、辞めることになりかなり悔しい思いをしたのではないでしょうか。
父親曰くミニバスケットボールクラブを退部させた本当の理由は自宅から学校が遠かったからとのこと。
バス通学をしていた辻菜摘の帰りのバスが出る最終時刻が18時でバスケの練習時間で遅くなってしまうと、乗り遅れてしまい、歩いて帰ることに。
夏場は徒歩で1時間、冬に雪でも降ったら子どもの足では2〜3時間はかかってしまい、真っ暗ななか山道を少女1人で歩かせるわけにいかないというのが辻菜摘の父親の言い分でした。
辻菜摘がミニバスケットボールクラブでチームのレギュラーに選ばれていたのであれば、例え帰りが遅くなっても、歩いて帰ったかもしれませんね。
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もし、他のチームメイトは遅くまで練習して辻菜摘だけが早めに練習を切り上げ、帰ってしまうと、後々チームメイトから仲間外れにされたりいじめに繋がることも懸念され、クラブの顧問と辻菜摘の両親との話し合いで退部が決定したとのことです。
しかしながら、辻菜摘はこの大人たちの話し合いの末自分が退部になったことは全く知る由もなく、母親に成績の件を詰められたことで辞めることになったと思っており、大人の事情で辻菜摘にとって大切な居場所を奪われる結果となってしまいました。
ミニバスケットボールクラブを続けていた時のブログの内容は、バスケのことばかりだったそうです。
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辻菜摘は元々バスの時刻については厳しく言われており、放課後友達と遊ぶこともできなかったようです。
友達とも自由に遊べない、大好きなバスケットボールもできなくなったという状況は、11歳の辻菜摘にとってかなりの不満をつのらせていたのではないかと思われます。
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ミニバスケットボールクラブを退部後の辻菜摘のブログには、「昼食を食べてから何をしたか記憶がない」、「ため息が出るほど暇」、「山の頂上でさけびたくなる」といった荒んでいく思いがつづられていたとのことです。
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辻菜摘は大好きなバスケができなくなり、退屈で鬱々とした日々を過ごしていたことが分かります。
実際、ミニバスケットボールクラブを退部してからの辻菜摘は、精神的に不安定になっていると思われる行動が目立つようになってきたそうです。
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辻菜摘は、ミニバスケットボールクラブ退部後より人の目を見て話さなくなり、目を泳がせて落ち着かない素振りを見せていたと言われています。
また、授業中に居眠りするようになったり、ストレートパーマをかけて登校するなど今までの辻菜摘の行動とは明らかに変わっていきました。
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さらに辻菜摘は、些細なことで逆上し暴言を吐いたり、学校で男子生徒をを追いかけまわして叩く、時には押し倒して踏みつけるようなことまであり周囲が辻菜摘を止めに入ると、「クソッ」と憎悪に満ちた声で言い放ったそうです。
これだけ問題行動が目立つようになった辻菜摘のことを当時の担任教師は放置していたのか疑問に思う人もいるでしょう。
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しかしながら、小学5年生当時の辻菜摘のクラスではいじめが蔓延、担任の女性教師は生徒から暴力を振るわれることもあり、学級崩壊しており、普通に授業ができるような状態ではなかったそうです。
担任の女性教師は問題だらけのクラスの中その日その日をこなすのがやっとで、辻菜摘1人を注視し、指導や職員間での共有事項にあげる余裕もないまま月日が経過していったのでした。
辻菜摘の家族は現在どうしてる?
辻菜摘の家族は、辻菜摘が起こした事件の後一家離散し、長崎県佐世保市内に残ったのは父親だけでした。
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父親だけが辻菜摘が住んでいた佐世保市に残った理由は、辻菜摘の学歴のためと言われています。
というのも、辻菜摘は佐世保市の大久保小学校の6年生でしたが、殺人事件後栃木県にある児童自立支援施設・国立きぬ川学院に入所しています。
辻菜摘が大久保小学校の卒業証書をもらうためには、学籍を残す必要があったそうです。
そのためには元々辻菜摘が住んでいた佐世保市の住所を残しておく必要があり、父親だけが残って佐世保市に住んでいたという経緯でした。
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しかしながら、その辻菜摘の父親も仕事が続けられなくなったという理由で佐世保を離れることになったようです。
事件後しばらく経ってから、辻菜摘の自宅にいる父親に話を聞きに行っていたジャーナリストの川名壮志氏は、父親が佐世保を離れた後に父親に取材した内容を記事にすることを了承してもらったと言います。
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そして、辻菜摘の父親が佐世保を離れた後に書いたという新聞記事の日付が2005年12月24日だったことから、辻菜摘の父親が佐世保から別の地域に移ったのは2005年からだったと思われます。
出典:jnpc
辻菜摘の父親の2005年以降の消息は分かっていません。
一方、辻菜摘の母親と姉と祖母は、辻菜摘が2004年9月より入所していた児童自立支援施設・国立きぬ川学院のある栃木県に引っ越したという噂がありました。
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辻菜摘が事件を起こした2004年当時、辻菜摘の姉は地元の商業高校に通っていましたが退学し、母親について行ったようです。
辻菜摘の姉は高卒認定試験のための勉強をしていたと言われており、姉の人生も妹が起こした事件と共に大きく変わってしまいました。
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辻菜摘の両親は事件後に毎月遺族である御手洗怜美さんへ謝罪の手紙を書いていましたが、辻菜摘が2008年春に国立きぬ川学院を退所して以降、手紙は途絶えたといいます。
辻菜摘が施設を退所したのを機に辻菜摘の両親は「禊(みそぎ)は終わった」と結論づけたのでしょうか?
まとめ
小学生が殺人を犯すという、当時日本中に衝撃が走った事件を起こした辻菜摘ですが、事件から20年が経過した2024年の現在も消息は不明、どこで何をしているのかは全く手掛かりがありませんでした。
何も情報がないからこそ、様々な憶測や噂が後を絶たないのでしょう。
被害者遺族である御手洗怜美さんの次兄は、自分が起こした事件についていまだ一度も謝罪のない辻菜摘に対し、「謝るならいつでもおいで」と思いを語っています。
また、辻菜摘が事件当時通っていた大久保小学校では毎年6月1日は事件を風化させないよう「いのちを見つめる集会」が開かれ全校生徒が亡くなった御手洗怜美さんに黙とうを捧げています。
出典:毎日新聞
当時11歳という年齢だった辻菜摘が、20年もの月日が流れ、ちょうどその頃の自分程の年頃の子どもがいてもおかしくない親世代となりました。
辻菜摘の以前の学び舎ではまだ事件の爪痕が色濃く残っていることを、2024年現在辻菜摘はどこかで見ているのか、気になるところです。
そして辻菜摘は20年の時を経て、事件を振り返り、何を思うのでしょうか。
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今回の事件で亡くなられた御手洗怜美さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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