我々一人一人に生まれてからこれまでの「生い立ち」があるかと思います。
一口に生い立ちといっても様々なものがあり、人の数だけの生い立ちがあります。
芸能人でもそれは同じで様々な生い立ちを経て現在に至っておられます。
最近では芸能人でも自身の育った生い立ちを自ら語られる人も多いですが、今回それを紹介するのは吉川ひなのさんです。
平成生まれの人には馴染みの薄い芸能人かも知れませんが、30代以上の昭和生まれには懐かしい名前かと思います。
どうやら彼女も一般人の時代は複雑な生い立ちがあるようで、そのあたりを紹介していきたいと思います。
【吉川ひなのの衝撃的な生い立ち】両親や家族からの虐待の日々!
デビューして間もなく売れっ子となった吉川さんでしたが、当時はSNSも無い時代でした。
また吉川さん自身も前述の様に出自に関して隠している事もあり、自分から情報発信するような事も無かった為に、プライベートな事はどちらかと言えば一切分からない状態でした。
後にいろいろと事実が判明する事も出てきますが、ここでは吉川ひなのさんの家族に関する様々な噂等について紹介していきます。
著書「わたしが幸せになるまで」壮絶な生い立ちが判明
彼女の著書では衝撃的な一言からスタートします。
10代、20代のころは何気ない日常の中で幸せを噛みしめるなんて、そんなことは一度もなかった。
引用元:山形新聞
これまで彼女の経歴を読んできた立場からすると、あれだけ売れて人気になったのにどうして幸せだと感じることがなかったのか不思議に思います。
当時の彼女と言えば大人気女優であり、自身の著書でも売れっ子ぶりとお姫様としてとことん大事にされていたことが以下のエピソードからも分かります。
- ひとこと寒いと言えば、周りの大人がどんなに暑くてもわたしの快適な温度になるようにクーラーを止める。
- 用意されたお弁当をあまり食べなければすぐさま別の食事が用意される。
- 誤ってものを落とせば争奪戦のようにその場にいる全員がそれを拾うために立ち上がる。
毎日どんな現場に行ってもとにかく彼女の期限を損ねないように、お姫様扱いをされていたと告白している吉川ひなのさん。
歌手デビューまでして日本中からもてはやされ、芸能界に憧れる女の子が欲しがるものをわたしは全て手に入れた。
引用元:山形新聞
自分の好きなものを与えられ、しかもなんでも自分の思い通りになる環境にいて、それでも幸せでないって本当に不思議です…
一体なぜ幸せだと感じなかったのでしょうか?
わたしが生きてたその日々はわたしの人生のはずなのに、わたしには仕事をチョイスする権利もなければ、寝る暇もなく働いてるこの仕事でいくらもらっているかすら知らなかったし、自分がやりたいことをする時間なんてまったくなかった。
誰かが勝手に決めたことの責任を負う理不尽さは、だんだんわたしの心を壊していった。
そんな日々が続いて、わたしはとうとう仕事に行かなくなった。
引用元:山形新聞
自分のやりたいことを全く出来ないことと(つまり、楽しくなくても楽しい演技をすること)などが彼女にとってとても苦痛だったようです。
まあいくら大人びていても10代ですからね。自身で決めて芸能界に入った訳ではないですし、やりたいことを我慢して仕事をするなんて苦痛でしたなかったのでしょう。
仕事に行きたくなくなるという気持ちもよく分かりますし納得できます。
ただ気になるのは「寝る暇もなく働いてるこの仕事でいくらもらっているかすら知らなかった」という言葉です。
ご両親からお金を貰ったり贅沢したりできなかったのでしょうか?
そう思いながら読み進めてみたら、ちょっと信じられない言葉が飛び込んできました。
自分で稼いだお金なのに金額も知らされず管理されて親に勝手に使われたりすること
引用元:山形新聞
えっ…どういうこと…親に勝手に使われてしまった?
それまでわたしは両親に、「わたしは芸能活動をそんなに長くはできないと思う。だからお願いだから貯金だけはしておいてほしい」と何度も頼んでいた。
そして、もうどうしても仕事に行けなくなってしまったタイミングで親のところへ行き、わたしはもう現場に行けない。でも生きていかなくちゃならない。
芸能界以外でできる仕事を探すからそれまでの生活費に今までわたしが働いて稼いだ貯金を分けてほしいとお願いしに行った。
引用元:山形新聞
両親はわたしの稼いだお金で借りていた豪邸の玄関で顔を青ざめさせ、よくわからない言い訳を繰り返し、数時間後にやっと持ってきた通帳には豪邸の家賃の1ヶ月分にも満たない額しか残っていなかった。
それまでに親にされてきたことや彼らの性格から、あまり貯金をしてくれていないことはなんとなく予想していたけれど、まさか月々入ってきてるはずの収入をここまで使っていたとは思っていなかったから、わたしは愕然とした。
引用元:山形新聞
酷すぎる。ただただ毒親に搾取される吉川ひなのさんという構図が出来上がっていました。
貯めておいてほしいと頼んだのに、全く貯金されていなかった…
普通ここまでやられたとしても色々とお話をして「今度はしっかりとひなののために貯金するね」という風になったら、めでたしめでたしですが、現実はそう行きません。
この両親の毒親ぶりは想像を絶するものです。
自分たちの生活資金を100%わたしの稼ぎで賄っていた両親は、わたしが働かなくなって最低限のお給料しかもらわなくなってからも、いつもわたしのところへきては自分たちが使うお金を用意するように言った。
両親の生活費をわたしが用意できなかったら自分たちは生きていけないから、そうしたら吉川ひなのの両親が……、とニュースになり大変な思いをさせてしまう。
それだけは避けたいと尚もわたしを追い詰めた。
引用元:山形新聞
なんとびっくり、自分で働かずに仕事をストレスでセーブしている吉川ひなのさんに頼るようになってしまいました。
いや自分で働けよ…という読者の声が聞こえてくるようですが、著者も同意見です。
一人暮らしをするわたしの家の前にはいつも、母親からわたしにお金を用意させるようにと命令された父親が待ち伏せしていた。
あるとき朝帰りしたわたしは、郵便物でぱんぱんのポストを久しぶりに開け、家に帰って眠っていないぼーっとした頭でひとつひとつ開封しているとそこに成人式を知らせるハガキをみつけた。
引用元:山形新聞
日時を見るとわたしの成人式はちょうどその日の数時間後で、今日わたしは着物を着て成人のお祝いをしてもらう日だったのか、と少し泣いた。
でも小さいころから家族に誕生日すら祝ってもらったことなんて一度もなかったし、こんな成人式の日はなんだか自分らしくすら感じて、気持ちを切り替えて寝てしまおう! と思ったとき、家のチャイムが鳴った。
引用元:山形新聞
予想通りと言えば予想通りですが、親御さんにその都度のイベントでお祝いをしてもらうことも全くなかったようです。
嫌な予感は的中で、インターホンのカメラ越しに映っていたのは父親だった。
わたしは鍵を開け父親を家の中に入れた。 父親はいつものように「お金のことなんだけど……」と言った。
わたしは父親に成人式のハガキを見せ、「今日わたし、成人式だったみたい」と言ってみたけど父親は興味なさそうに、「ほんとぉ……」とだけ言って、いつもの困り顔で、「お金をさぁ……」と言った。
わたしが「こないだ渡したお金で全部だよ。もう次のお給料が入るまで、お金ないよ」と言うと、「困っちゃったなぁ……」と全面的にわたしに自分の人生を押し付けてそこから動こうとしない。
引用元:山形新聞
わたしは本当にお金がないんだということをわかってもらうために、「この間からそこのマイメロディの貯金箱で500円貯金を始めたの。今はもうそのお金しか、本当にないよ」と言うと父親は「そうか……。じゃあ、それ、いい?」とその貯金箱を持っていこうとして、わたしはさすがに感情的になりわんわん泣いたけど、父親はなにも言わずにわたしの貯金箱を持って去って行った。
引用元:山形新聞
ただただ酷い、本当に酷い。
あまり言いたくないですけど、本当にクズ親ですね。
小さいころからわたしの両親はそんな感じで、支払いができなくてしょっちゅう電話が止まっていたり、学校に行く前に借金取りがきて、お母さんは今いないと言いなさいと納戸に隠れる母親に言われ、スーツを着た大人に玄関先でお母さんがいるのはわかってる。お嬢ちゃんが呼んでくれるまでおじさんたちは帰れないと言われ学校に行けなくなったりした。
引用元:山形新聞
それ以外にもたくさん親の言いなりになってきて、親になにをされても我慢して言うことを聞くのが当たり前だと思って生きてきたけど、その都度わたしは深い傷を負っていた。
こんなのおかしいと言おうものなら、母親は鬼のような顔をして、「なんにもおかしくない! うちより変な家なんてたくさんあって、うちはすごくまともだ!」とわたしを黙らせ、他人にうちのことは絶対に話しちゃいけないと言われてきたから、わたしは子どもながらにいつも自分で想像した『普通の家』のふりをして生きていた。
支払いできず家の電話や電気が止まっていたり、給食費を払ってもらえたりしていなくても。
引用元:山形新聞
本当に自分の娘をお金としか見ていなかったことが分かります。
こんな状態でボロボロだった吉川ひなのさんを救うきっかけになったのが、現在結婚している旦那さんということみたいですね。
彼と出会ったころのわたしはとても神経質で、自分とまったく向き合えていないから本質的なことがなにもわからず『普通じゃない』恥ずかしさをいつもなにかのせいにしていた。
引用元:山形新聞
本人は著書で昔の自分の在り方を反省していますけど、あれだけのことをされてそれでも人のせいにしないなんて、どんな聖人君主でも出来ないから仕方がないと思います。
周りが彼女にとって望んでいない「腫れ物を触る状態」になってしまったことも当然だと思います。
しかしそこで踏み込んでくれたのが今の夫。
でも彼だけはいつも真っ直ぐわたしに意見を言ってきて、わたしはそうされてるうちに、普通にできないと決めつけていたのは自分で、もしかしたらわたしは自分で思っているより普通なのかもしれない、彼がわたしのことを『普通にできない人』として扱ったことは一度もないのだから! と自信がつき、わたしは彼に褒めてもらいたくて最低限しかせず逃げ続けていた仕事をもっとしてみようと思うようになった。
引用元:山形新聞
昔と同じようにおかしい状態に陥っていたけれど、昔は誰も何も言ってくれなかった。
しかし今回はキチンと言ってくれる人がいたんですね…
その後紆余曲折がありながらも彼と結婚するようになった彼女ですが、ではハワイに移住することになった理由は何なのでしょうか?
東京にいたときは芸能界でちゃんと仕事をしていないと、また価値のない自分に戻ってしまうという恐怖があった。
だから人に『わたしの価値』を感じてもらえるように一生懸命だったけど、ハワイにいると表紙を飾る自分もブランドもののバッグもなんにもいらない。
引用元:山形新聞
人からの評価が自分の価値ではないということに、わたしはようやく気づくことができた。
一生暮らしていけるお金があるわけでもないのにそんなことは上手くいくはずがないと誰もが言ったけど、わたしはもう誰かの無責任な言葉に自分の人生を決められるのはこりごりだったから、誰になんて言われても自分のことは自分で決めていくし、どんなことが起こっても全責任を負う覚悟を決めた。
人生を自由に生きることを自分自身に許したとき、わたしは心から幸せを感じるようになった。
引用元:山形新聞
人生を自由に生きることが出来なかった彼女が、人生を自由に生きることを自分自身に許すことが出来たって本当に凄いです。
ここまで彼女の激動の人生を読んでくださったファンの方も、そう思うのではないでしょうか?
この著書の最後に彼女は以下のように述べています。
誰かにとってはなんの価値もないような小さなことでも、わたしにとって価値のあるものなら胸を張って大切にすること。
それができたときわたしの人生はとても豊かなものになり、子どものころから抱えていた自分の中にぽっかりあいた穴はなくなっていた。
たった一度きりの人生だから、これからもずっと自分以外の誰かの価値基準に振り回されず、自由に、幸せに、責任を持ってわたしらしい豊かな人生を送っていきたいと思ってる。
引用元:山形新聞
「自分にとって何が大切なの?」「それは本当にあなたが大切だと思っていることなの?」
多くの人がしっかりと考えなければならないことではありますが、世の中の忙しさにかまけて私たちは往々にして考えることを止めてしまいます。
ただ、そういった価値観こそが最も大切であると吉川ひなのさんは教えてくれました。
彼女の体験記を読んでくださった皆様にもぜひ自分の価値観を考えていただきたいと思います。
父親は吟遊詩人で母親がフィリピン人?死亡説も流れる
娘にあれだけお金のことで付きまとっているご両親は一体どんな仕事をしていたのでしょうか?
普通に働いていたら、あそこまで酷いことは当然しないと思うのですが…
まず父親の情報について、どうやら吉川ひなのさんは20代の頃に父親の職業を聞かれたら「吟遊詩人と答えなさい」と言われていたようです。
吟遊詩人ですよ吟遊詩人…もう酷すぎて草も生えない。
また、昔吉川ひなのさんがバラエティに出演した際に「父親は人間国宝の画家」と答えていたこともあったようです。
また、お母様にはどうやらフィリピン人ではないかという噂がある様です。
前述したように吉川さんは自身がクォーターと語っておられ、祖父が外国人であることを告白されていますので、ご両親のどちらかがハーフで有る事は確定しています。
ですが、父親か母親のどちらがハーフで有る事は一切公表はされていません。
ところが一部では母親がフィリピン人であるとの噂があるようですが、「フィリピンパブで働いている」という噂程度のものなので真実性はほとんど無いようです。
ネット上の書き込みで以下のようなものがありました。
ひばりヶ丘時代に、うちの姉ちゃんがひなの妹と仲良かった。
確か、
- 母ちゃん フィリピーナ(日本名はカズエ)
- 兄ちゃん 和也
- 姉ちゃん 舞
- ひなの 愛
- 妹 麗
こんな感じだったよ。高田家。
高田家というのは吉川ひなのさんの本名「高田愛」の苗字ですから、ちょっと信憑性があるかもしれないですが…
また吉川さんの顔立ちがそういった雰囲気を醸し出しているから出てきた噂といういい加減な物もあるようなので、国籍を確定できるような情報は無いのが正しいようです。
さらには母親については死亡しているという説まであるようです。
これについても吉川ひなのさんについてネットで調べていると出てくるキーワードに「母親 死」というものが出てくるそうです。
ですが実際に吉川さんの母親が亡くなっている事が裏付ける様な記事は存在するはずもありません。
両親の生死を芸能人であるから報告する義務なんてどこにもありませんので、正直どうでも良い話なのですがネットではそういった噂が出ている様です。
もちろん実際に母親が御健在なのか既に亡くなられているかについては我々に確かめる術はありません。
吉川ひなのさん自身や、先ほど出てきたお兄様もブログで報告される可能性も有るかも知れませんが、現状はその様な報告は無いようなので母親を含めご両親が健在なのかは不明なのが事実の様です。
兄や姉や双子の妹がいる噂は本当で現在も仲良し
次に吉川ひなのさんに姉妹(兄弟)がいるかについてです。
前述でも少しふれましたが、吉川ひなのさんにはお兄様がおられます。
10歳年上の高田一也さんという方で、現在はボディビルダー、パーソナルトレーナーとして活動されている方です。
過去にはビジュアル系バンドでヴォーカルをしていた過去もあるそうです。
高田和也さんは妹である吉川ひなのさんのSNSにも度々登場されたりしていますので公に兄妹関係であることを公表されています。
ちなみに兄の名前から分かる通り、吉川ひなのは芸名であることがわかります。
デビュー以降は吉川ひなのを本名と語っていた時期もあったようですが、前述したフォトエッセイ集で本名は「高田愛」と告白されているようです。
公式に発表されている訳ではないので本当かどうかは実は裏付けが取れていません。
他にも妹さんがいる事は確認されています。
吉川さんのブログに数年前までは頻繁に妹さんに関する記事が投稿されていました。
一部では双子であるとか、職業がパティシエと言われていますが、それを裏付けらるものは見つける事が出来ませんでした。
ただ顔写真や名前は徹底して伏せられているので一般のお仕事をしている方なのは間違い無さそうです。
ブログ内で妹さんが作られたスィーツが度々登場する事からの噂かも知れませんが、職業に関する言及は吉川ひなのさんのブログでは見つけられませんでした。
この他にも姉がいるとも噂されていますが、妹と違い姉に関しては一切情報が見当たらないので存在も含めてあやふやな部分が多そうです。
唯一出てくる噂としては「銀座のクラブで働いている」というものですが、これもどこまで本当なのかは怪しい内容です。
兄や妹の情報があるのに姉は一切出てこない不自然さから考えて、何か確執があり連絡が取れていない可能性もありそうです。
【結論】実家は吉川ひなののお陰で裕福な暮らしをしていた件
最後に吉川ひなのさんの御実家についての噂ですが、面白い事に裕福説、貧乏説両方の情報が存在しています。
まずは実家が裕福とする説についてですが、これは吉川ひなのさんの出身地に由来する噂で有るようです。
吉川さんの出身地は東京都東久留米市とされていますが、ここはお金持ちの富裕層が暮らす地域と言われており、過去には漫画家の手塚治虫氏も住んでいたそうです。
また吉川さんが実家でペットを沢山飼われていたのですが、その種類が「リクガメ」「リスザル」「フェレット」等で、20数年前はまだまだ珍しい部類のペットだったと思われます。
それらを実家で飼っていた事からそれなりの経済力や土地があるのではないかという推論になることから実家が裕福であるという根拠になるようです。
次に実家貧乏説ですが、これは裕福説に比べるとかなり無理やりな根拠となっているようです。
兄の高田さんも含め吉川さんが出したフォトエッセイの中でも実家の家庭環境に関する言及は無いようです。
どうやら前述してきた出自を隠していた件等の複雑な家庭事情が転じて、貧乏だったという結論に結び付いた事で出てきた噂では無いかと言われている様です。
ただ、ここまで読んでくださった読者の皆様なら、吉川ひなのさんが仕事をしていたころは両親がお金持ちで両親が裕福な暮らしをしていましたが、彼女自身は自分のお金を全然使えず大変な暮らしをしていたことが分かっていただけるかと思います。
吉川ひなのの波乱万丈すぎるデビューからの芸能活動を総まとめ
冒頭でも書きましたが、平成生まれの人にとっては名前を聞いてもあまり分からない人も多いかと思います。
生まれてからの生い立ちを含め、芸能界デビュー後の活躍についても簡単に紹介します。
芸能人デビューから全盛期の2004年頃まで
1979年12月21日生まれで、平成3年(1991年)に東京の銀座で買い物中にスカウトがきっかけで芸能界入りをした吉川ひなのさん。
芸能人のデビューのキッカケとしては王道ですが、この時の吉川さんは満12歳なのでまだ小学校6年生です。
それでスカウトの目に留まるのですから相当目を引く存在だったのだろうと想像できます。
その後、12歳で大手百貨店の伊勢丹の広告に起用される事になります。
12歳のデビュー当時の画像は見かけられませんでしたが、上記画像は93年当時新聞広告に掲載された吉川ひなのさんです。
(ちなみにスカウト後の91年に伊勢丹モデルとして即デビューした説と、93年にデビューした説がネットでは出ている様でどちらが正しいのかはよく分からない状況になっている様です。)
当時14歳で顔は若干子供っぽい顔にも見えますが、全体の雰囲気はかなり大人びた印象を受けます。
新聞広告であるので多数の人の目に留まる事となり、「8頭身美女」とも言われ一躍注目の的となります。
見ての通り完全なモデル体形でありましたので、デビュー後はモデル業を中心に活動を行っていきます。
1997年には映画主演で女優としてもデビューし、2001年には舞台にも出演されています。
2001年には歌手としてもデビューをしており、多方面にわたり活躍の場を広げていかれます。
そして本業のモデルとしては2004年に「パリ・コレクション」にも出演されています。
モデルが本業でしたがデビュー時から沢山のバラエティ番組にも出演されていたので、筆者も当時の番組でいろいろ見かけたのは記憶していますので、知名度は一般層にも相当いきわたっていたと思われます。
ちなみにお仕事面では大成功を収めた感のある吉川さんですが、実は私生活では1999年2月(当時19歳)にビジュアル系バンド「SHAZNA」のボーカルであったIZAMさんとの結婚を発表して世間を驚かせます。
ところが7か月後の同年9月にはFAXで離婚を発表されました。
僅か7カ月での離婚と未成年での結婚であったことから当時のマスコミからは「ママゴト婚」として揶揄される事になりました。
モデル業を中心としながらも歌や女優業へと活動の幅を広げるパターンは現在でもよく見る王道パターンですが、筆者の記憶ではお世辞にも吉川さんの場合、モデル業以外では成功しなかった記憶があります。
所属事務所はバーニング系列のレプロ所属なので、事務所の力でかなり手広く売り込んだと思われますが、やはり向き不向きがあるのは仕方のない事でした。
というのも吉川さんは外見は抜群のスタイルを誇っていましたが、声がかなり特徴的でいわゆるアニメ声の様な高い地声の持ち主でした。
前述の通り歌手活動を行っていますが、お世辞にも歌が上手い部類とは言えずやはり声が足を引っ張っています。
(当時の動画はYoutube等でも確認できます。)
女優業も10代の時はまだ良かったのかも知れませんが、大人の女性を演じる上ではやはり高い地声が演技の足を引っ張っていた様な記憶がありますので、徐々に出演する事も無くなっていく事になります。
同時期に観月ありささんが歌手や女優としても大活躍されていた事もあり、余計に比較されていたかも知れません。
2度目の結婚からハワイ移住を決断し現在に至るまで
2005年頃まではモデル業を中心としながら、歌手、女優業にも活動の幅を広げていましたが、前述したような事もあり、その後はモデルとタレントとしての活動がメインとなって行きます。
そして2011年9月に会社経営者男性と再婚をされます。
再婚相手に関してはいろいろと噂がありますが、ここでは本題と外れてしまいますので割愛します。
2012年3月20日に女児を出産、2015年からはハワイへと生活の場を移されて、2018年2月9日は二人目のお子さんも授かられています。
再婚後は主婦業に専念される様になり、ほとんど表舞台に出ない状態となります。
2015年には生活の場をハワイの場に移した事で日本での活動もほぼ皆無な状態となっています。
2018年9月からは今度はハワイからロサンゼルスに移住した事を公表されていますので、現在もレプロに所属されていますが、ハワイ在住と同様日本での活動はほぼ無いに等しい状態です。
ですがインスタを開設されており、フォロワー数60万人以上を誇っています。
更新も頻繁にほぼ毎日で、他にもYoutubeチャンネルも開設しており、日本に居なくても積極的に情報発信や活動を行っておられます。
この他にもプロデュース業に力を入れている様で、子供服、カラーコンタクト、ウェディングドレスなどを展開しており、現在は実業家としての側面が大きくなっている様です。
またヨガのインストラクター資格もあるようで、講師としての活動も行っておられます。
現在はタレント業の方が副業の様な状態になられていますので、平成生まれの人に馴染みが無いのは当然の結果なのかも知れませんね。
40歳を迎えていますが元々のスタイルや美貌に加えヨガで鍛えた体もあり、40代とは思えない体形と美しさを今も保っておられます。
実はハーフではなくクォーターだった事を自身のブログで告白
モデルとして活躍される方は現在も多く存在していますが、10代から注目されてスタイルも大人びているとなるとやはり外国人の血が入っているのではと思ってしまう事もあるかと思います。
吉川ひなのさんも僅か12歳でデビューし、「8頭身美女」「9頭身美女」と呼ばれる程日本人離れしたスタイルだったことからハーフではないかと言われていました。
ところがブレイクしてた当時は吉川ひなのさんはハーフでは無いと否定しており、それは所属事務所も同じでした。
当時はネットもほとんど普及していない時代なので調べる術もありませんでした。
ですが2015年に出版されたフォトエッセイ集「ずっと途中」の中で自身の出自について語られています。
(一部記事では2005年に出版されたとも言われていますが、2015年が正しい時期の様です。)
その中で祖父がネイティブ系アメリカ人とフランス人のハーフであった事を明かされています。
この事から吉川ひなのさんはクォーターであることが分かります。
これは後述しますが、お兄さんも自身のブログで同じような事を告白されていますので間違い無いようです。
今でこそ、ハーフやクォーターに対する世間の見方(特に子供を取り巻く環境)は良くなりつつありますが、吉川さんが子供だった当時はまだまだいじめの対象になった事があったようです。
その為、事務所からも言わない様にと口止めされていた様です。
そういった経緯もあり、吉川さんは家族という言葉が嫌いだったとも言われています。
ここからは吉川ひなのさんの家族について紹介していきたいと思います。
まとめ
ネットが普及する前に全盛期があったタレントさんで出自に関しては事務所も含めて隠す方針で活動されていた為に、吉川ひなのさんについて様々な噂が出ると言う典型的なパターンだったような気がします。
吉川ひなのさんの実家の環境や家族についてのまとめです。
- 僅か12歳でスカウトされて芸能界デビューとなる
- 日本人離れしたスタイルの良さからハーフを疑われたが事務所を含めて噂を否定していた
- 祖父がネイティブアメリカンとフランスのハーフで自身はクォーターであることを2015年に出版したフォトエッセイで告白している
- 吉川ひなのさんの子供時代にはハーフやクォーターだというだけで学校でいじめの対象になったことから事務所とも相談した上で隠して活動する事を決めた
- 兄妹は兄、姉、双子の妹が存在していると言われているが、確認できるのは兄と妹で姉に関する情報は「銀座でホステスとして働いてる」以外の情報が一切ない
- 兄は高田一也でボディビルダー、パーソナルトレーナーとして活動しており、吉川ひなののSNSにも度々登場しており、兄妹であることが公言されている
- 妹については吉川ひなののブログで度々登場しており、一部では双子や職業はパティシエと言われているが裏付ける様な記事や言及はされていない
- 妹がパティシエであるとされる根拠は吉川ひなののブログで度々手作りのスィーツが登場することから出てきた噂の可能性もある
- 母親にはフィリピン人説や死亡説などが存在するがいずれも噂レベルで裏付けができる記事などは存在しない
- 実家については裕福である説と貧乏である説が存在しているが、どちらも一部正しい
- 裕福説については出身地の東久留米市や子供の当時飼っていたペットが特殊であったことから裕福な家庭であったと推察されている
10代前半から仕事を始めて複雑な家庭環境や出自を隠していた事から、吉川ひなのさんは自身が子供を産むまでは家族というものが嫌いであったと語られています。
ですが現在、吉川さんのSNSを見る限りでは常に家族や日々の暮らしなどどちらかと言えば何気ない事を多く投稿されています。
そういった事から現在は家族との生活を大変満喫されている事がSNS上からも伝わってきます。
現状、ロス在住とコロナ禍の影響で日本での活動はほぼありませんが、SNSやYoutube等で活躍されていますので実は新しい時代のタレント活動の方法を開拓・実践されている一人なのかも知れませんね。
吉川ひなのさんの旦那について気になる方はこちらの記事をご覧ください。
さて、悲惨すぎる状況から吉川ひなのさんを救ってくれた再婚相手の旦那さん。
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