山口組五代目組長として16年間にわたりトップに君臨した渡辺芳則氏。2005年にクーデター説が取り沙汰される形で引退に追い込まれ、その後の晩年は不遇だったと言われています。
なぜ引退に追い込まれたのか、死因は何だったのか、そして妻や娘はどんな人だったのか。いろいろ気になりますよね。
渡辺芳則氏の波乱に満ちた極道人生と、あまり語られることのなかった晩年の真相に迫ります。
渡辺芳則のプロフィールと経歴
- 渡辺芳則は五代目山口組組長として1989年〜2005年の16年間トップに君臨した
- 引退は体調不良が表向きの理由だが、宅見勝射殺事件への関与によるクーデター説が濃厚
- 引退後は恐喝や認知機能の低下に苦しみ、不遇な晩年を過ごした
- 死因は肝臓がん関連の病死で、生体肝移植を受けたが2012年12月1日に71歳で死去
- 妻とは2004年に離婚(財産保全目的の可能性)。養女の娘は歌手デビューを目指していた
| 名前 | 渡辺芳則(わたなべ よしのり) |
|---|---|
| 生年月日 | 1941年1月8日 |
| 没年月日 | 2012年12月1日(71歳没) |
| 出身地 | 栃木県壬生町 |
| 肩書き | 五代目山口組組長(1989年〜2005年) |
| 死因 | 病死(肝臓がん関連) |
渡辺芳則氏は1941年、栃木県壬生町の豪農の次男として生まれました。ヤクザに多い貧困や非行とは無縁の裕福な家庭で育ったそうです。
勉強は苦手だったものの、少年時代は喧嘩が強いだけで非行に走ることはなく、実家の畑仕事を手伝う親孝行な子どもだったとのこと。中学卒業後に上京し、東京浅草の蕎麦屋に住み込みで働き始めます。
豪農の次男から山口組五代目組長に上り詰めるまで
1958年、東京で山口組系山健組の若衆と知り合った渡辺氏は、組に誘われて兵庫県神戸市に移住しました。すぐには盃をもらえず、まずは傘下の建築会社で忍耐力を試されたそうです。
1961年に三代目山口組若頭・山本健一氏の盃を受け、初代山健組の組員となります。組に入った頃から「30歳前後で組を持つ」という明確な目標を掲げていた渡辺氏。実際に29歳で山健組内に健竜会を結成し、有言実行を果たしました。
山本健一氏には何かと気に入られていたそうです。付き人時代に居眠りをして山本氏を一人で帰らせてしまったときも、「このまま寝かせといてやれ」と許されたほどでした。
ただし関東出身だったため、関西出身者が多い山健組では浮いた存在だったとも言われています。1970年に健竜会を結成して会長に就任し、1982年には山本健一氏の急死により二代目山健組組長に就任。
1989年4月、宅見勝氏の力添えで五代目山口組組長に就任しました。就任時に約2.8万人だった組員を4.1万人まで増加させるなど、組織拡大に力を発揮しています。
阪神大震災で見せた救援活動のリーダーシップ
1995年の阪神・淡路大震災では、神戸に総本部を構える山口組のトップとして、渡辺氏自らが救援活動の指揮を執りました。地震発生からわずか数時間後には、総本部駐車場の井戸水を近隣住民に配り始めたそうです。
日本全国からトラックやヘリコプターで救援物資が昼夜を問わず届けられ、一日二回の配給には常時2000人以上の被災者が並びました。
渡辺氏自身も野球帽にジャンパー、ニッカボッカ姿でバイクを走らせ、被災者からは「社長」と呼ばれていたそうです。身元を明かすことは極力避けていたようですが、組長だと知っている被災者も多かったとのこと。
山口組総本部が直接扱った物資だけで金額にして11億円以上。海外メディアでも報じられるほどの規模でした。被災者からは「最後に頼れるのは山口組さんだった」という声も上がっています。
この救援活動は、三代目組長・田岡一雄氏が掲げた「困った人がいたら助ける」という精神を受け継いだものでした。「売名行為だ」という批判もありましたが、多くの被災者の助けとなったのは間違いありません。
渡辺芳則の引退理由はクーデターだった?
2005年の渡辺氏の引退は、山口組の歴史の中でも異例中の異例でした。組長が存命中に引退するのは、初代組長・山口春吉氏が実子に跡目を譲って以来のことです。
表向きは体調不良が引退理由とされましたが、実際にはクーデター的に代替わりさせられたとの見方が有力です。
六代目に山健組系ではなく弘道会系の司忍氏(本名:篠田建市)が就任したこと、そして渡辺氏が総裁にも名誉総裁にも就かず一般人として退いたことが、この説を裏付けています。
また引退の前年2004年には、山下組組員による警官誤射殺事件で山口組の使用者責任を認めた最高裁判決が出ており、渡辺氏は長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲していました。こうした流れの中で、組織内部での力関係が大きく変わっていったようです。
宅見勝射殺事件への関与が引退の決定打に
1997年8月、山口組ナンバー2だった宅見勝若頭が神戸市内のホテルで射殺されました。犯行は山口組系中野会のヒットマンによるもので、中野会会長・中野太郎氏には絶縁処分が下されています。
渡辺氏は宅見氏の力添えで五代目組長になった経緯がありますが、就任後に宅見氏から「五代目にしてやった」と恩着せがましい態度を取られ続けたと言われています。これに対する憎悪が次第に積もっていったそうです。
事件の数年前から、渡辺氏が中野太郎氏に宅見氏の暗殺を促す電話を頻繁にかけていたという証言もあります。射殺事件後、宅見組による中野会幹部への報復殺害が相次ぐなど、事態は混迷を深めました。
「渡辺氏が射殺事件に関与した証拠をつかまれ、引退を迫られた」という説が最も信憑性が高いとされています。ただし公式に確認された事実ではなく、あくまで関係者の証言や書籍に基づく情報です。
金銭への強い執着が組内部の信頼を失わせた
引退に追い込まれた背景には、渡辺氏の金銭に対する強い執着もありました。
たとえば、地方の大規模な開発工事に割り込み、本来は地元の直参組織が取り仕切るはずの利権を自身の影響下にある業者を使って奪ったというエピソードがあります。
一儲けした直参が渡辺氏に収益の一部を差し出すと、遠慮なく受け取ってしまうこともあったそうです。
歴代の組長はお金に潔癖でした。三代目の田岡組長は「うどんの一杯ですら若い者におごってもらったことはない」と語り、四代目の竹中組長は襲名祝いの現金を「バカな事をするな」と持ち帰らせています。
また、妻が経営するブティックも組内部の不満の種でした。「姐さんの店」として傘下の組員が高額な買い物を強いられる形となり、上納金以外の出費が膨らんでいったと言われています。
こうした長年にわたる不信感の蓄積が、宅見勝射殺事件と合わさって、渡辺氏を組織から追い出す形になったと考えられます。
渡辺芳則の晩年と死因
2005年に引退した渡辺氏の晩年は、想像以上に厳しいものでした。六代目の総裁にも名誉総裁にも就くことなく、完全に組織から切り離される形になっています。
引退後の不遇な生活〜恐喝と孤独の日々
引退後の渡辺氏は、兵庫県神戸市中央区の自宅でひっそりと暮らしていました。身の回りには数名のボディーガードがいるだけで、組の運営には一切関与しなかったそうです。
しかし地位を失った極道の末路は厳しいものでした。かつての部下たちから恐喝を受けたり、息のかかった企業を奪われたりしたと言われています。
さらに深刻だったのが認知機能の低下です。2011年に出所した六代目組長・司忍氏が挨拶のために渡辺氏の自宅を訪れた際、渡辺氏は目の前の人物が司忍氏だと認識できなかったそうです。
引退の経緯によるストレスや、第一線を退いたことで気力を失ってしまったのか。いずれにしても、かつてのトップの姿とは大きくかけ離れた晩年だったようです。
死因は肝臓がん〜生体肝移植も実らず71歳で死去
渡辺氏は60歳を過ぎた頃から腰痛・糖尿病・C型肝炎など複数の持病を抱えるようになっていました。こうした体調の悪化が表向きの引退理由にもなっています。
その後、肝臓がんが発見され、京都市内の病院で生体肝移植の手術を受けました。ドナーがつき、生体肝移植でトップレベルの医師が執刀。手術自体は成功したものの、長期的な回復には至らなかったようです。
2012年12月1日の朝、神戸市中央区の自宅で倒れているところを家人が発見。119番通報が行われましたが、正午頃に死亡が確認されました。71歳でした。
死因は公式には公表されていませんが、肝臓がんに関連する病死と報じられています。事件性はないとされました。16年間トップに君臨した五代目組長は、組織から離れた静かな自宅で最期を迎えたのです。
渡辺芳則の嫁と娘
渡辺芳則氏には妻と娘がいました。極道のトップの家族は、どのような生活を送っていたのでしょうか。
嫁はブティック経営〜離婚は財産保全が目的か
渡辺氏の妻は、夫の五代目組長就任と同時に神戸市内にブティックを開店しました。非常に高額な服を取り扱い、新商品が入荷するたびに電話で積極的に営業をかけていたそうです。
山口組の「姐さんの店」ということもあり、関係者がこぞって買い物に訪れ、店はかなり繁盛していました。ただし前述の通り、この店の存在は組内部の不満の種にもなっていたようです。ブティックは渡辺氏の引退と同時に閉店しています。
2004年に渡辺氏と妻は離婚しました。しかしこの離婚は、現役時代に蓄えた財産を妻名義に移して守るための「偽装離婚」だったとの見方が有力です。引退が近いことを見越した財産保全策だった可能性が指摘されています。
養女の娘の画像は?歌手デビューを目指していた
渡辺氏には歌手を目指していた娘さんがいました。実子ではなく養女で、血のつながりはなかったそうです。
吉本興業からデビューの話が持ち上がったことがあり、当時まだ専務だった大崎洋氏(後の吉本興業社長)が大物芸人の中田カウスさんを通じて話を受けたとされています。渡辺氏サイドからの依頼がきっかけだったようです。
吉本側は担当社員をつけて歌唱レッスンまで行いましたが、諸事情によりデビューは実現しませんでした。血のつながりはなくとも、娘の夢を叶えようと動いた渡辺氏の姿には、親としての愛情を感じますよね。
なお、娘さんの写真や画像は公開されていません。名前も非公開で、かつての組長の養女という立場を考慮してプライバシーが守られていると思われます。歌手志望だったことから音楽関係の仕事に就いている可能性もささやかれていますが、確かな情報はありません。



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