山口組五代目組長だった渡辺芳則氏。
2005年に引退しましたが、16年という長い間山口組の最高責任者を務めました。
引退理由は諸説あがり、情報は錯綜。
この引退のニュースは世間に大きな衝撃を与え、クーデター説が付きまとうなどしました。
日本最大の指定暴力団である「山口組」の組長にまで上り詰めたにも関わらず、不遇の晩年だったという渡辺氏。
果たして、どのような人生を送ったのでしょうか?
そこで、渡辺氏の人柄や人生を家族情報も合わせて調べてみました。
渡辺芳則が辿った極道の道のり
渡辺 芳則(わたなべ よしのり)氏は、1941年1月8日栃木県壬生町の豪農の次男として生まれました。
- 1961年:三代目山口組若頭・山本健一の盃を受け、初代山健組の組員となる
- 1970年:山健組内に健竜会を結成、会長に就任
- 1971年:山健組若頭に就任
- 1982年:山本健一の急逝により、二代目山健組組長に就任
- 1989年:五代目山口組組長に就任
- 2005年:体調不良により引退
- 2012年12月1日:兵庫県神戸市中央区の自宅で死去(71歳)
勉強が苦手だった渡辺氏。
両親は大学進学を望みますが、中学卒業後は進学せずに上京することになりました。
そして、両親が夢にも思わぬ道を歩む事になります…。
山健組の組合員になるため神戸に移住
東京での渡辺芳則氏は…。
1957年、東京浅草の日本蕎麦屋に住み込みで働いていました。
1958年には、飯島連合会系のテキ屋を手伝うようになりました。
その一方で、数人の子分を引き連れて愚連隊のような活動もしていたとのこと。
そんな中、東京で銀行マンとなっていた中学時代の同級生など、故郷の知り合いに会う機会が多かったようで…。
バツが悪い思いをすることもあったそう。
1958年、山口組系山健組の若衆と知り合います。
組に入るように誘われ、兵庫県神戸市に移住することになりました。
移住後、山健組の事務所を訪ねます。
しかし、盃をすぐには貰うことは出来ずに、まずは傘下の建築会社で働かされたそう。
当時の組長だった山本健一氏の方針で、忍耐力のある若者を見極めるためだったと言われています。
しかし、実際の渡辺さんの建築会社の仕事は…。
現場の作業員ではなく、池の埋め立て作業を3人で見張るというもの。
交代で仕事を休んでは、大阪まで債権取り立てのアルバイトに行っていたそうです。
この様子からですと、忍耐力の見極めは難しいかと思いますが(笑)
1961年、いよいよ山本健一の盃を受け、初代山健組の組員となりました。
さあ!極道人生の幕開けです!
山本健一に気に入られるが組では浮いた存在だった
山口組の傘下・山健組組長の山本健一氏(後に三代目山口組若頭にも就任する)の付き人をしていた時期がありました。
ある日、山本氏が麻雀店で麻雀をしている最中に居眠りをして、山本氏を一人で帰らせてしまいました。
付き人時代に居眠り出来てしまうなんて、すでに大物ですね。
「このまま寝かせといてやれ」と一人で帰った山本氏。
何かとミスが多い渡辺氏を山本氏は逆に可愛がっていたそうです。
よほど気に入られていたのですね♪ほっこり♪
しかし、関東出身だったため、関西出身者の多かった山健組では何かと浮いた存在でした。
地域によって慣習など、色々違いがありますからね…。
何かとご苦労があったと思われます。
山本健一の身代わり出頭で出世のチャンスを掴んだ
出世のチャンスを掴んだのは、山本健一氏の身代わり出頭をした事からでした。
1968年頃に、有馬温泉の賭場で大儲けをした山健組の若衆。
山本氏に儲けの一部を包んで挨拶に来たのですが…。
その際に、手土産に拳銃を渡したことが騒動の始まりとなりました。
その後、若衆が大阪府内の賭場でトラブルになった相手を拳銃の柄で殴りつけるといった暴力事件を起こし逮捕されます。
この時の拳銃の入手先だった、山本氏ら山健組幹部たちも摘発される事態となりました。
そして、渡辺氏は山本氏の妻・秀子さんから身代わり出頭役を任されたのだそうです。
出所後は秀子さんが後見人状態となり、山健組の若頭まで出世。
1970年、神戸市を拠点とした健竜会を結成しています。
1981年、山口組三代目組長・田岡一雄氏が病死。
激動の時代に渡辺氏は、とんとん拍子に出世をしていきました。
田岡氏の死後は、山本氏が跡を継ぐことが有力視されていましたが…。
服役中の1982年2月に、持病の肝臓病が悪化して急死。
1984年、竹中正久氏が四代目組長に就任。
一方、当時、山口組若頭補佐だった宅見勝氏が、山口組直系組長たちにお金を配り、大きな力をつけていきました。
宅見勝の力添えで山口組五代目組長に就任
1985年、四代目組長・竹中氏が銃撃され死亡。
そして、1989年4月。
渡辺氏は宅見氏の力添えで、山口組五代目組長に就任することになりました。
その後、山口組長としての渡辺氏は、就任当初2.8万人だった組員を4.1万人まで増加させました。
阪神・淡路大震災の救援活動の指揮をとり大活躍
1995年に起こった阪神・淡路大震災。
神戸に総本部があったため、渡辺氏も被災しました。
にもかかわらず、山口組のトップとして救援活動の指揮を自ら執りました。
国よりも早い救援活動の内容が凄かった!
山口組の救援活動は、総本部駐車場の一角にある井戸の水を近所に配ることから始まりました。
地震発生からまだ数時間後の事でした。
当時の村山総理が、地震発生2時間後にその報告を受けましたが…。
すでに、その時には、見舞いの品を持参した直系組長たちが、山口組総本部に到着していました。
すごい組織力です!動きが早い!さらに!
震災当日の午後には、後の山口組六代目・司忍弘道会会長もヘリコプターで総本部入り。
道路のどの進路が救援物資を運ぶのに早いか?視察もされました。
水や食料などがある噂が口コミで広がり、総本部前には被災者たちの行列ができました。
そして、傘下組織に救援物資の調達指令も出します。
日本全土からトラック、ヘリコプター、大型クルーザーなどあらゆる手段で救援物資が、昼夜を問わず総本部に届けられました。
一日二回の配給では、総本部周辺に常時2000人以上の被災者が並びました。
物資は一般食品から、乳児の離乳食・薬品・紙おむつ・生理用品・使い捨てカイロ等々。
的確な判断で今、必要としている物を手配。
物資を配るだけではなく、避難所、病院をはじめ神戸市内の被災全域で救援活動は行われました。
渡辺氏自身も、野球帽・ジャンパー・ニッカボッカ姿で自身がバイクを走らせ、救援活動を行っています。
渡辺氏は被災者に「社長」と呼ばれ、その身元を明かすことを極力避けたそうです。
(組長と知っていた被災者も多数いましたが…。)
炊き出しでは、山口組系の本職のテキ屋が大規模な屋台を設営。
炊き出しボランティアは神戸に10か所近く設けられました。
渡辺氏も、この屋台村に幾度も足を運んでいます。
他にも、神戸周辺に本部を構える直系組長たちは24時間の「自警団」活動などで自主的に動きました。
山口組総本部が直接扱った物資だけで、金額に換算すると11億円以上にもなります。
外国メディアでも「マフィアが救援活動」と報じられました。
多くの被災者が山口組の救援活動に感謝している
山口組は他の災害でも、救援活動を度々行っています。
この積極的な救援活動は、三代目の田岡組長の意志から始まりました。
「山口組は暴力団ではない。任侠団体である」
という言葉を残しています。
そして、渡辺氏自身も行政では出来ない動きで、たくさんの人の助けとなったのです。
被災者はこのように語っています。
- 「警察も役所も当てにならない」
- 「震災後、役所はモタモタしている」
- 「あの時、最後に頼れるのは山口組さん」
- 「渡辺組長さんが誰より一番先に被災者への救援活動を開始してくれました」
- 「渡辺組長さんは、自ら率先して助けてくれました」
- 「被災者を一番守ってくれたのは山口組ですよ」
法の枠組みで動く警察や行政。
しかし、まさに今!人命に関わる事態が起きれば、法を尊重していては手遅れになることも。
国民を守るべきはずの法が、時には国民を苦しめる事になってしまうのです。
警察や行政とは違う立場の山口組は、すぐに動く事が出来て被災者を支える事となりました。
三代目の時に、山口組の救援活動を「人気とりか」と言ったマスコミがいたそうです。
その後も、救援活動に関して「売名行為だ」と思われることも…。
混乱の中、救援活動する事は大変なことです。
何よりどれだけ被災者の役に立ったかかを思えば、そんな言葉は言えないのではないでしょうか。
渡辺芳則の人物像に迫ってみた
渡辺氏はお酒は全く飲めなかったようで…。
体質的にお酒を一切受け付けない下戸でした。
ヤクザの世界、お酒を飲めなくてもやっていけるのですね~ビックリ!
そんな、意外な面を持つ渡辺氏の人柄について迫ってみましょう。
喧嘩は強いが不良ではなく親孝行な少年だった
少年時代の渡辺さんは、すでに喧嘩が強かったそうです。
しかし、非行に走ることはなく実家の畑の手伝いをするなど、親孝行な少年でした。
実家が豪農ということで裕福な家庭。
ヤクザに多い生い立ちの、貧困・不良というわけではなかったのです。
出世欲が強く有言実行をした
渡辺氏は環境的に、普通に就職もできたでしょうが…。
「自分の努力次第で出世出来る。どこまでも伸びる事が出来る」
という理由でヤクザの道を選びます。
組に入った頃から「だいたい30歳前後で組を持つ」というハッキリとした目標がありました。
実際に29歳で山健組内で健竜会を結成しています。
合理主義者で無駄なことはしない
渡辺氏は、暴行や障害などのエピソードは、あまりないそう。
懲役も数年程度で、大切なのは懲役の期間よりも行く内容だと言います。
抗争事件で体を賭けた懲役は、功績として認められると。
自分で覚醒剤をやっての懲役は認められないと、冷静で現実的な考えの持ち主でした。
渡辺芳則の評判は賛否両論だった
渡辺氏の評判は…。
- 「組長なのに威張ったりせず、いつも謙虚。気配りの人だった」
- 「決断力がない」
- 「金に汚い」
- 「ケチで世間知らず」
と、賛否両論でした。
人は良い面、悪い面ありますから意見が分かれるのも仕方がない事と思います。
ただ、山口組の執行部からのマイナスな評価は、後に渡辺氏の組長人生を大きく揺るがすことになりました。
目上の女性に可愛がられた
渡辺氏は目上の女性に可愛がられました。
田岡組長の妻・フミ子夫人や、山本健一氏の妻・秀子夫人から可愛がられたそうです。
こちらはフミ子夫人⇩
目上に可愛がられる人の特徴として…。
- 礼儀正しく気遣いが出来る
- 素直で可愛げがある
- 明るい
- 未熟だけど頑張り屋
などがありますが…。
渡辺氏もこのような要素を持ち合わせていたのではないでしょうか。
この要素は、母性本能をくすぐる要素でもありますので、目上の女性に可愛いがられたのも納得です。
渡辺芳則の名言はビジネスでも役立つ!
名物組長だった渡辺氏の残した名言は、ビジネスの現場でも役立つと言われています。
山口組のトップの言葉は沁みますね~。
渡辺芳則の自宅は神戸市中央区の豪邸
渡辺芳則氏の自宅は、神戸市中央区にありました。
詳しい住所などの情報は不明ですが、渡辺芳則氏の自宅だという画像が見つかりました。
さすが、豪邸です!
我が家の何倍でしょうか~。
まっ、狭い方が掃除が楽でいいんですけどね…。
引退理由の真相はクーデター説が濃厚とされている
山口組のトップとして16年間君臨していた渡辺芳則氏。
2005年の引退は世間を驚かせることになりました。
山口組の組長が生前に引退することは、初代組長の山口春吉氏以来の出来事でした。
(この時は、実子の山口登さんに跡目を譲った)
表向きは体調不良による引退となっていますが、実はそうでは無かったようです。
また、六代目組長に就任した人物が、山健組系の後進ではなく弘道会系の司忍氏(本名:篠田 建市)
このことから、クーデター説が囁かれました。
裏社会の深い闇!真相は引退させられた!
渡辺氏は、限りなく「クーデター的に」代替わりさせられたと言われています。
この代替わりについては様々な憶測が流れ、山口組に身を置く者であってもハッキリとした真相を知るものは少ないと言われています。
追放されるかのように引退をした渡辺氏に、追放されるだけの理由はあったのでしょうか?
1997年8月、山口組ナンバー2であった宅見勝若頭が神戸のホテルで射殺されました。
宅見氏の力添えのおかげで、山口組五代目に就任することが出来た渡辺氏。
「五代目にしてやった」と恩着せがましい態度の宅見氏に対して、憎悪が積もっていたと言われています。
山口組系中野会のヒットマンたちによる、宅見氏の射殺…。
当時、山口組若頭補佐を務めていた中野会会長・中野太郎氏が絶縁されるなど厳しい処分が下されました。
こちらが、中野太郎氏です⇩
そして、宅見組より報復を受けて、中野会幹部たちが殺害される事件が相次ぎます。
後に中野氏が、「中野会に宅見氏の暗殺指令を出したのは、渡辺氏だった」とカミングアウトし世間の度肝をぬきました。
事件数年前より渡辺氏から中野氏へ、宅見氏の暗殺を促す電話が頻繁にかかってきたと言います。
「渡辺氏が射殺事件に関与した何らかの証拠をつかまれ、引退を迫られた」
という説が一番、信憑性は高いと言われています。
金銭の執着が強すぎて嫌われた
渡辺氏と宅見氏の不仲から…。
宅見勝射殺事件→事件は渡辺氏の指示と判明→強制的に引退
となったように思われますが、引退になった理由は他にもあったようです。
渡辺氏は、お金に対して執着が強く周りに良く思われていなかったと言います。
エピソード①
ある地方で大きな開発工事があった時。
地元の直参組織が取り仕切って、シノギとするのが普通なのですが…。
しかし、渡辺氏は、それを割って入ったとのこと。
自身の影響下にある業者を入らせて利権を奪ったそう。
山口組の当代として富を得ていた渡辺氏。
直系組長達のシノギにまで干渉し割り込むような行動を不満に思う者は多かったはずです。
エピソード②
お金に執着が強い事を利用して、一儲けした直参の中には、渡辺氏に収益の一部(ワイロ)を差し出す者もいたそう。
渡辺氏は、これを遠慮なく受け取ってしまいました。
エピソード③
これまでの組長はお金に綺麗だったと言います。
- 三代目田岡組長:「私はうどんの一杯ですら若い者におごってもらった事はない」と言い切っている
- 四代目竹中組長:襲名祝いに現金を差し出された時「バカな事をするな」と持ち帰らせている
どちかというと、お金より人情を大切にしていた先代の組長たち。
トップとはいえ、周りからの信頼がなければ危うい立場になってしまう事でしょう。
執行部も渡辺氏に不満があったようです。
渡辺氏が追放のような形となったのは、長年積み重なった背景があると考えられます。
引退後の晩年もストレスがいっぱい!死因は病死らしい
引退後の渡辺氏は、兵庫県神戸市内の自宅で生活を送っていました。
地位を失った極道の末路は厳しいものだったようです。
引退後の渡辺氏には…。
- かつての部下たちから恐喝を受ける
- 息のかかった企業を奪われる
このような事があったそう。
引退というと、その後は穏やかな生活と思いきや…やはり極道の世界厳しいものがあるのですね。
引退の経緯や引退後のストレスからか、若くして認知機能が衰えてしまったという噂も…。
2011年に司組長が渡辺氏の自宅を訪れた際に、対面している人物が司組長だと認識できなかったそうです。
第一線から退いたことで、生きる事のエネルギーもなくし抜け殻のようになってしまったのかもしれません。
2012年12月に自宅で倒れているところを発見され、119番通報したものの手遅れで他界。
死因に関しては公表されていませんが、病死だったと報道されています。
渡辺芳則の家族は妻と娘がいた
さて、渡辺芳則さんには妻と娘がいました。
家族はどのような人物なのでしょうか?
嫁はブティックを経営・後に財産を守るために離婚した
渡辺氏には妻がおり、ブティックを経営していました。
夫の五代目就任と同時に神戸市内にブティックを開店。
この店は、非常に高額な服を販売していました。
渡辺夫人は、新商品の入荷を積極的に電話で知らせるなど、販売に熱心だったそう。
山口組の関係者としては、姐さんの店ということもあり進んで多額の買い物をする事となります。
その結果、店は繫盛していました。
ちなみにこの店は、渡辺氏の引退と同時に閉店となりました。
2004年に、渡辺氏と妻は離婚しています。
この離婚は、現役時代に蓄財した金を逃避させ保護するという「財産を守るための離婚」と見られています。
渡辺芳則の娘は歌手を目指したが夢叶わず
渡辺芳則氏には、歌手を目指していた娘さんがいました。
名前などの詳細は不明ですが、吉本興業からデビュー話があったとのこと。
当時、まだ専務だった現在の吉本興業・大崎社長が大物芸人から頼まれたそうです。
その大物芸人が渡辺氏サイドから頼まれて、話を持ち込んだと言います。
歌のレッスンを受けるようになりましたが、諸事情により結局、デビューは出来ませんでした。
じつは、この娘さんは実子ではなく、養女とのことで血の繋がりはありませんでした。
しかしながら、歌手になりたいという娘の願いを叶えようとした渡辺氏。
血の繋がりはないとはいえ、娘さんへの愛情は確かなものだった事でしょう。
「組長になる」という目的を果すが不遇な晩年だった
「自分次第で出世出来る」と自らヤクザの世界に入った渡辺氏。
そのビジョン通り、異例の若さで山口組のトップに上り詰めましたが、強制的な引退となってしまいました。
本来、ヤクザの組長は晩年まで組長であり続けるのですが、まさかの引退。
渡辺氏自身、まさかそんな結末になるとは思いもしなかった事でしょう。
引退後も穏やかな生活を送る事が出来なく、不遇な晩年だったと言われています。
しかし、世間やマスコミから「長くは続かない」と言われながらも16年間も組長の座にいられたわけで…。
渡辺氏が幸せだったのか、不幸だったのか、判断出来る者はいません。
幸せだったかどうかは、人生を終えた時に本人がどう感じたのかによると思います。
「不遇な晩年」という言葉を吹き飛ばすほど、「自分の人生これで良し」と今、安らかであることを願います。
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