日本国の首長と言えば、首相である内閣総理大臣ですよね。
初代の伊藤博文から現在まで、のべ100人以上の人物が総理大臣を務めてきました。
そんな中で、最も総理在任期間が長いのが、現時点では安倍元首相になります。
平成以降の時代に限ると、安倍元首相の次に総理在任期間が長かったのが今回紹介する小泉純一郎元首相です。
今回は小泉純一郎さんと元妻の宮本佳代子さんの家系について紹介する記事となります。
宮本佳代子の家系図!実家はエスエス製薬
小泉元首相の奥様だった人物は宮本佳代子さんです。
家系図でも確認できますが、宮本佳代子さんの祖父はエスエス製薬の元会長です。
佳代子さんの実家である宮本家からもエスエス製薬の社長を務めた人物が誕生しています。
小泉家の親戚と宮本家が知合いだったことから、1977年に小泉元首相とお見合いを行っています。
当時の佳代子さんは青山学院大学在学中でした。
お見合いの当日に小泉元首相からのプロポーズもあり、佳代子さんは結婚を決意します。
ですが、父親代わりの存在だった祖父の泰道照山(たいどうしょうざん)氏は結婚に反対します。
ハッキリとした理由までは語られていませんが、政治家との結婚に反対していたのかも知れません。
結局、祖父の賛成は得られず、結婚するなら絶縁するというような状態にまで悪化していたそうです。
ですが、佳代子さんは当時の小泉元首相の「何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。」という言葉を信じて、1978年に結婚しました。
離婚理由が衝撃!結婚から4年で離婚し子供と生き別れに
78年に小泉元首相と結婚しますが、結婚生活はわずか4年で幕を閉じます。
そして離婚後、3男を身籠っていた宮本佳代子さんはシングルマザーとして3男の佳長さんを出産します。
また前述した様に、結婚時に祖父とは絶縁状態だった為、実家を頼る事も出来なかった様です。
もともと佳代子さんは東京で子育てを希望していましたが、最終的には横須賀の小泉家で、夫の純一郎さんの母親や姉たち、さらに弟や義妹たちと共に暮らすことになりました。この環境自体がすでに大きなストレスとなっていたと思われます。
慣れない環境と家事や選挙活動に追われ疲弊していく佳代子さんでしたが、夫の純一郎さんは、「姉たちがいなければ選挙ができない」として、妻である佳代子さんを庇うことなく、姉たちを優先しました。この選択が、二人の離婚へと繋がったようですね。
後に佳代子さんはこの時期を振り返り「義母や夫の姉弟に囲まれた生活は、私にとって良い人生勉強でした。多くの涙を流したからこそ、人の痛みが理解できる人間になれたと思います」と語っています。当時は本当に辛い経験でだったようですね。
実家も頼れず一人で生きていかない状況だった彼女ですが、佳長さん出産から半年後に三井不動産のグループ会社に入社し、1か月間の猛勉強で宅地建物取引主任者(現・宅地建物取引士)の資格を取得します。
その後は不動産業界でキャリアを重ねていく事になります。
また離婚後は一切子供に会う事もなく、生き別れ状態となりました。
3男の佳長さんには父親が小泉元首相である事は伝えていた様ですが、父親との関係については以下の様に言い聞かせていたそうです。
父親が有名でも、あなたとは関係ない。あなたの母はいちサラリーマン。勘違いしないで生きていきなさい。
引用元:J-CASTニュース
この様に、もはや赤の他人と思わせるような事を言い聞かせていたそうです。
その為、離婚後は元妻として一切表舞台に出る事もなく、家族の事についても一切口外はしなかった様です。
出典:sbrain
現在の宮本佳代子さんですが、不動産業界で働いており、トッププレイヤーとして活躍されています。
また現在は講演活動も行われている様です。
現在は小泉家との関係も改善されている様で、小泉元首相が政界を引退した事を機に、交流を解禁された形となりました。
ただし、交流があるのは兄弟間のみで元夫婦での交流は無さそうです。
そんな佳代子さん曰く「孝太郎さんは目が大きくいちばん母親似。進次郎さんはちょうど中間の顔で、佳長さんは目が細くていちばん父親似」だそうです。
小泉純一郎の家系図を辿ってみた結果が凄すぎた
小泉純一郎元首相は1978年に宮本佳代子さんと結婚されていますが、わずか4年で離婚されています。
その後、小泉元首相は再婚されていませんので、総理大臣時代も独身のままで務められています。
議員は2009年で引退されており、現在は講演活動以外では表立って政治活動は行っていません。
また自身の議員時の地盤は次男である小泉進次郎さんが継ぐ形になっています。
小泉家の血筋も次男の進次郎さんに息子さんが生まれていますので、小泉家の血筋は次代に残ります。
ちなみに小泉元首相の弟である正也氏の奥様が石原慎太郎さんの奥様の典子夫人と親戚関係だったこから、石原家と小泉家は遠縁の親戚関係となるようです。
小泉家の家系図を辿ると、小泉元首相の父親も祖父も政治家だった様です。
ただし、小泉家は安倍元首相や麻生元首相の様な明治維新から続く政治家の家では無く、明治時代に祖父の小泉又次郎氏が政治家に転身した事が始まりの様です。
小泉家は代々とび職人を生業としていた
小泉純一郎元首相の祖父にあたる小泉又次郎さんから政治家に転身した事で政治家としての血筋が始まりましたが、政治家になる前の小泉家は代々とび職を生業とする職人の家だった様です。
元々は横浜あたりに住んでいたそうですが、明治時代に横須賀に移っています。
その後横須賀に海軍鎮守府がおかれた事で急速に軍港化が進みます。(日清・日露戦争時代)
それに伴い港で働く労働者が必要になってきます。(船に食料や砲弾を積み込む人手等)
これに目を付けた曾祖父の小泉由兵衛は人材あっせん業を始めます。
人材あっせん業といっても当時は合法、非合法合わせた事が行われており、また港に流れ着く労働者も一癖も二癖もある人物が多かった様です。
また人材あっせん業には江戸から続く博徒とのライバル関係や縄張り争いもあり、次第に小泉由兵衛が率いていたとび職の集団の小泉組もやくざ化していく事になったそうです。
今ではこの小泉組が近代やくざの元祖的な存在になっているそうです。
小泉又次郎の時代に政治家に転身
小泉由兵衛が始めた請負業(人材あっせん)が成功した事で、とび職集団と請負業の集団となった小泉組。
小泉由兵衛には息子が3人いたそうですが、小泉又次郎は次男として誕生しています。
当然、由兵衛からは家業を継ぐことを期待されていた様ですが、又次郎はとび職や請負業を継ぐ気は全く無かったそうです。
その為、10代の頃は度々家を飛び出していたそうですが、その都度連れ戻されていたそうです。
そして兄が急死した事で、家業を継げるものは又次郎となった時にその決意の証として全身に入れ墨を入れたそうです。
まあとび職人や港で働く労働者の上に立つ親分になるので、舐められない為の方法だったとも言われている様です。
この入れ墨を入れた事が後に「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」と呼ばれる要因になった様です。
その後は小泉組の親分として家業を営んでいた様ですが、1887年(明治20年)、立憲改進党に入党した事で、政治家へと進んでいく事になります。
ですが、当時は政治的信条があったわけでは無く、知合いに誘われただけだったそうです。
1907年(明治40年)に横須賀市会議員に当選、県会議員を経て、1908年に衆議院議員に立候補して初当選、その後38年間の議員生活を送る事になります。
1929年(昭和4年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ、この時に「いれずみ大臣」と呼ばれる様になったそうです。
やくざの親分から最終的に大臣にまで上り詰めましたが、いわゆるたたき上げの政治家であり、大衆政治家として人気があったそうです。
小泉由兵衛が組織した小泉組は又次郎が政治家を志したために、3男の小泉岩吉が跡を継いでいます。
その後の小泉組の動向を調べましたが、不明でした。
恐らくは解散して、現在は存在していないと思われます。
実は婿養子の小泉純也
小泉元首相の父親である小泉純也氏も後に政治家となりましたが、祖父の小泉又次郎には男子が生まれませんでした。
その為、後に娘の婿養子として純也氏が小泉姓を名乗る様になります。
小泉元首相の父である純也氏の旧姓は鮫島姓で出身地は鹿児島県と言われています。
鹿児島で代々漁業の家系だったそうですが、父親が11歳で亡くなった事もあり、早くから鹿児島市内で働きに出ていました。
学生時代を経て後に小泉又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員となりますが、そこで又次郎の娘の芳江と知り合う事になります。
ここで2人は恋仲になってしまう訳ですが、父親の又次郎は交際に大反対します。
そして二人は駆け落ちをして東京青山のアパートで生活する様になります。
一説によると又次郎の娘の芳江はハンサムな男性が好みだったそうで、純也氏の容姿に惚れてしまった様です。
また父親の又次郎は婿養子にはもっと立派な所から迎えたいとの思いからの反対だったそうです。
結局、父親の又次郎が折れて、『代議士になれたら一緒になることを許す』という事になりました。
その後1937年に故郷の鹿児島県で民政党公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選となります。
戦後は公職追放にあい、一時期は政治から離れていましたが、1952年に義父・又次郎の後継者として神奈川県から立候補し、衆議院議員として当選、政界に返り咲いています。
その後は1955年、第2次鳩山内閣の法務政務次官、1964年、第3次池田内閣改造内閣、および第1次佐藤内閣の防衛庁長官を歴任しています。
議員在職中の1969年8月10日に65歳で亡くなられており、小泉元首相に後を譲る前に急死する形となりました。
小泉純也には韓国の血を継いでいる疑惑あり
小泉元首相の父親である純也氏は元々小泉家の人間ではなく、小泉又次郎の娘の芳江さんの婿養子として小泉家に入っています。
旧姓は鮫島姓で出身地は鹿児島県と言われており、代々漁業を生業にしていたと紹介しました。
ですが、一部では小泉純也氏に韓国の血が入っていると言う噂がある様です。
調べてみると確かに一部では言われている様です。
SNSでもこの話題は多く投稿されていますが、アンチ系の投稿も多いので、どこまでが真実なのか分かりません。
ただ、いろいろと調べてみると、どうやら小泉純也氏の御先祖が文禄・慶長の役の後に日本に渡ってきた朝鮮人なのでは無いかという説がある様です。
文禄・慶長の役とは豊臣秀吉による朝鮮半島への2度に渡る戦争の事ですが、この時に現地の職人や住民を捕虜として日本へ連れ帰ったと言われています。
そして連れ帰った人達が暮らした土地が小泉純也氏の出身地である鹿児島県で、鮫島姓の御先祖なのでは無いかと言われている様です。
400年以上前の事なので、どこまで真実なのかは分かりませんが、鮫島姓の御先祖は日本人の血と交わる事無く、ずっと同族結婚を繰り返して血を繋いできたとも言われている様です。
ただ、これらの情報も掲載されているのがアンチ小泉系のブログ等に多く掲載されているので、どこまで信じていいのかは正直分かりません。
まとめ
今回の記事では小泉純一郎元首相の家系図について紹介する記事でした。
小泉元首相が独身である事はもちろん知っていましたが、奥様の事は調べてみるまでは一切知りませんでした。
ただ、離婚時の小泉元首相の「君子、去るものは追わず、来るものは拒まずだな」の発言は、お見合い当日にプロポーズした人と同一人物の発言とはとても思えないくらい冷たいですよね・・・・。
総理在任時は高い人気を誇っていましたが、もし当時の国民がこの発言を聞いていたら非難の嵐だったと思われます。
明らかな大失言なので、辞任に追い込まれていたかも知れませんね。
小泉純一郎の家系図についてのまとめです。
- 小泉元首相は首相在任期間が1980日で歴代総理大臣の中でも6位の記録となる
- 小泉元首相は1977年に当時大学生だった宮本佳代子さんとお見合いしている
- 宮本佳代子さんは元エスエス製薬の社長泰道照山の孫
- 父親代わりだった泰道照山さんは小泉元首相との結婚には反対で、結婚時には絶縁状態だった
- 1978年に小泉元首相と宮本佳代子さんは結婚し、孝太郎、進次郎の2男を授かる
- 1982年3男を妊娠中に離婚し、長男・次男の親権は小泉元首相が持つことになる
- 離婚した宮本佳代子さんはシングルマザーとして3男を出産し、離婚後は二人の息子に会う事を禁止されていた
- 小泉元首相が政治家を引退した事で、兄弟間の交流が許される様になった
- 小泉家は元々は代々とび職を生業としていた
- 明治時代に曾祖父の小泉由兵衛が横須賀の軍港で働く人材あっせん業を始める
- 人材あっせんで成功を収め、ライバルや縄張り争いに勝ち抜き、近代やくざ組織の小泉組が誕生する
- 小泉由兵衛の息子、小泉又次郎が友人に誘われ、政党に入党した事から政治家に転身する事になる
- 小泉又次郎は議員初当選後は38年に渡り政治家として活動している
- 小泉又次郎には息子が生まれず、小泉元首相の父の純也が母芳江の婿養子になった事で小泉姓を名乗る様になる
- 小泉純也が急死した事で、小泉元首相が30歳で父親のあとを継ぐ形で衆議院議員に当選している
- 小泉純也にはご先祖が400年前に日本に渡ってきた朝鮮人だとの噂がある
小泉元首相の次男である小泉進次郎さんが議員になった事で、小泉又次郎から4代続く政治家の家系となりました。
進次郎さん自身も言っていますが、父親の様な政治家を目指しているが、子供の親としては父親を参考に出来ない様な発言もされていました。
いろいろな理由があっての離婚だったのでしょうが、30年以上も生き別れ状態となった事はやはり不幸だったとしか言いようがないですからね。
小泉進次郎さんの場合も先はまだまだ長いので、離婚しない可能性は無いとは言えませんが、同じような事になるのは避けてもらいたいですよねぇ。
そんな宮本佳代子さんの子供について気になる方はこちらの記事をご覧ください。
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