今回の記事は大瀧詠一さんに関する内容ですが、みなさんはこの人物をご存じでしょうか?
恐らく40代より若い世代では、余程音楽に詳しい人で無ければ知らない人がほとんどかも知れません。
ただ、名前は知らなくても楽曲は知らずに聴いた事がある人は多いかも知れません。
出典:めざましmedia
1997年に放送された月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌に大瀧詠一さんの楽曲『幸せな結末』が起用された事で、彼の名前を知った人もかなり多いのでは無いでしょうか。(筆者もこれで知った一人)
1970年代から80年代まではバンド活動を中心に音楽活動を行っていましたが、それ以降はプロデュサー業や楽曲提供等がメインで活動されています。
またTVに出るのが嫌で、初期のバンド活動中に何度かTV出演した以外は、ほとんど出演する事はありませんでした。
1981年にリリースされた『君は天然色』という楽曲については現在まで、何度もCMソングや、映画に使用されており、世代を越えて人気のある楽曲です。
ただ残念な事に、2013年12月30日に65歳で急逝されています。(詳細は後述)
経歴だけでも記事が1本十分に書ける人物ですので、簡単な紹介はこれくらいにして、今回の記事では大瀧詠一の息子について紹介します。
大瀧詠一の息子は大瀧詞巧(しこう)
出典:X
大瀧詠一さんには2人のお子さんがおり、長男と長女だと言われています。
長男については名前は詞巧(しこう)さんで、上記の画像も詞巧(しこう)さんの画像だと思われます。
ただし、名前と顔写真は確認できるものの、それ以外の情報はほとんどありません。(婚歴も不明)
判明しているのは以下の2点のみです。
アルバムに収録された楽曲に2歳当時の声
上記の画像は1975年5月30日に発売された『NIAGARA MOON』というアルバムです。
ここに収録された『三文ソング』に当時2歳だった大瀧詞巧さんの声が収録されているそうです。
エンディングの「サッチモォ、アハッ!!」の部分が息子さんの声だそうです。
1975年当時で2歳だったので、大瀧詞巧さんの生年は1973年前後と推測できます。
2014年に発売されたアルバム制作に参加
出典:Amazon
上記画像は大瀧詠一さんが亡くなった後の2014年12月3日に発売された、未発表曲を含めたベストアルバム『Best Always』です。
このアルバム制作のスタッフの中に、息子さんの名前が確認されています。
監修として参加している様です。
大瀧詠一さんは自身の楽曲や音源管理する目的で1974年にザ・ナイアガラ・エンタープライズという会社を設立しています。
出典:Sony Music
このザ・ナイアガラ・エンタープライズのレコードレーベルがナイアガラ・レーベルでした。
大瀧詠一さん死後にこのレーベルを継承したのが、娘婿である坂口修さんですが、息子さんの大瀧詞巧さんも参加して、大瀧詠一さんの楽曲管理や著作権管理を行っていると言われています。
ただ、大瀧詞巧さんに関しては『Best Always』で名前が出た以外に情報が見つからないので、現在の職業に関する正確な情報は無いと言えるかも知れません。
大瀧詠一の息子の死因は?
出典元:DOMMUNE
大瀧詠一さんの息子さんの死因について気になる方が多いようですが、大瀧詞巧さんは今でも存命の可能性が非常に高いです。
後述しますが、大瀧詠一さんは2013年に亡くなっており、彼と息子の詞巧さんを勘違いした方が検索をすることが多かったため、噂が流れたのでしょう。
大瀧詠一の娘についてはほぼ不明
出典:ニッポン放送
次に大瀧詠一さんの娘さんに関する情報ですが、一切の情報がありません。
名前、生年月日、顔写真、職業等、あらゆる情報が見つかりません。
唯一娘さん自身ではありませんが、旦那さんが作曲家、音楽評論家、音楽プロデューサーである坂口修さんである事だけです。(実際は娘婿になっているそうです。)
出典:インスタグラム
上記は過去に放送されていたラジオ番組『渋谷で2時~Shibuya Rainbow〜』に坂口修さんが出演された時のインスタグラムの投稿です。(右側マスク姿の人物)
コメントには肩書紹介で、『ナイアガラ・エンタープライズ代表』と確認できますので、大瀧詠一さんが設立した会社を引き継いでいる事が分かります。
出典:文春オンライン
大瀧詠一さんには前述した長男がいますが、坂口修さんが娘婿になっている事から、長男の詞巧さんは独身かも知れません。
娘さんもナイアガラ・エンタープライズに関わっているとする説もありますが、これについてはっきりと裏付ける様な情報はありません。
坂口修さんと結婚に至った経緯や子供の存在も不明です。
大瀧詠一の妻は静子
出典:ORICON NEWS
大瀧詠一さんの奥様の名前は静子さんです。
2014年3月21日に行われた「お別れの会」で、遺族代表として参加されていたので、名前が明らかになっています。
静子さんに関する情報もほとんど分かっておらず、前職が看護婦だった事だけが判明しています。
大瀧詠一さんが倒れた時に救急車が到着するまで心臓マッサージで救命措置を行っていたそうです。
出典:Amebaブログ
結婚に関する情報も無い状態で、1972年に結婚したと言われています。
息子さんが1973年前後生まれなので、一応辻褄は合いそうです。
もちろん馴れ初めに関する情報も見つかりませんでした。
大瀧詠一の死因は解離性動脈瘤
出典:時事通信
今回の記事は大瀧詠一さんの息子に関する記事ですが、もう少し大瀧詠一さんについて紹介しておきます。
1948年7月28日生まれで、岩手県江刺郡梁川村(現・奥州市)の出身です。(本名は大瀧榮一)
1970年代に主にバンドメンバーとして活躍されており、山下達郎さんを見出した人物としても知られています。
出典:Sony Music
さらに作曲家として提供した曲には大ヒットしたものも多く、主な曲だけを少し紹介すると・・・。
- 「風立ちぬ」松田聖子 1981年10月7日発売
- 「冬のリヴィエラ」森進一 1982年11月21日発売
- 「探偵物語」薬師丸ひろ子 1983年5月25日発売
- 「熱き心に」小林旭 1985年11月20日発売
- 「うれしい予感」渡辺満里奈 1995年2月22日発売 フジテレビ系アニメ『ちびまる子ちゃん』(第2期)の初代オープニングテーマ
出典:X
アイドルから演歌、アニメまで幅広い分野でヒット曲を生み出しています。
ちなみに『ちびまる子ちゃん』の楽曲については原作者のさくらももこさんが大瀧詠一さんの大ファンだったそうで、そこから依頼した事で誕生した曲だそうです。
1980年以降は、ラジオ以外ではほとんど表舞台に出る事はありませんでしたが、多くの楽曲を世に送り出しており、影響を受けたミュージシャンも多くいるそうです。
出典:スポニチアネックス
日本の音楽界に多大な影響を与えた大瀧詠一さんでしたが、残念ながら2013年12月30日に亡くなられています。
当時の報道によると、『自宅で夕食後にデザートにリンゴを食べていた時に、倒れて緊急搬送されました。』となっていました。
ですが、救急隊が自宅に駆け付けた時点で、既に心肺停止状態だったそうで、病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。
出典:スポニチアネックス
その後、死亡原因は解離性動脈瘤と発表されています。
享年65歳でした。
解離性大動脈瘤(だいどうみゃくかいり)とは、大動脈の血管壁が裂けて中膜と外膜の間に血液が流れ込む病気です。
後に行われたお別れの会で、奥様から大瀧詠一さんの最期について詳細が語られています。
亡くなる1週間程前から体調を崩しており、風邪だと思って寝込んでいたそうです。
ですが、実際に風邪の症状が無いにもかかわらず、足腰に力が入らず、『俺、脳が疲れたよ』と大瀧詠一さんは発言していたそうです。
出典:ORICON NEWS
この時点で病院に行っていれば、もしかしたら助かっていた可能性も有ったかも知れませんが、アルバム制作中だった為に、仕事を優先した事で最悪の結果を招いてしまいました。
その後体調不良も回復し、亡くなった当日も仕事を済まして自宅に戻った後だったそうです。
奥さんが夕食前にリンゴでも食べようと台所で剥いていると、突然『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われたそうです。
出典:X
驚いて大瀧詠一さんの方を見た時にはもう椅子にぐったりともたれかかった状態で、チアノーゼも起こしていました。
その後は救急車を呼び、到着までずっと心臓マッサージを行っていたそうですが、最後まで意識が戻る事はありませんでした。
出典:音楽ナタリー
大瀧詠一さんの場合は具体的にどの場所に動脈瘤が発症したのかは明かされていません。
同じ様な症状で芸人の笑福亭笑瓶さんも亡くなられているので、記憶されてる人も多いかも知れません。
コメント